第五回 国際聖会「バルー・ハバー2012」 (2012年3月7〜15日)

5回目となる聖会のテーマは、マタイ伝23章39節から「バルー・ハバー2012」とされ、メシアの再臨を成就するためのメシアニック・ジューと教会の役割について学ぶ機会となりました。聖会は前半5日間を、アッコ、ハイファ、ガリラヤなどイスラエルの北部を巡り、キリヤット・ヤムにあるオハレー・ラハミームのコングリゲーションで講演や賛美が行われました。後半4日間は、リバイブ・イスラエルも加わり、エルサレムを巡りながらイスラエルの歴史をたずね、講演、ミーテイングが行われました。今年の参加者の特徴は、アジアからの来場者が全体の約3分の1を占め、イスラエルのメシアニック・ジュー・ムーブメントに対する関心の高さが示されました。特にアジア・メシアニック・フォーラムの東京大会、韓国大会(2011年11月開催)に出席した方々が多く参加し、過去の聖会にはない出来事でした。聖会で語られた4名のリーダーの講演を要約します。

共催:オハレー・ラハミーム、リバイブ・イスラエル、ティツクン・インターナショナル
参加者:160人(参加最高齢者は、92歳のアメリカの女性)
参加国:アジア:日本、韓国、台湾、中国、シンガポール、フィリピン、インド
北米:アメリカ、カナダ   南米:ベネゼエラ   アフリカ:コンゴ、タンザニア
ヨーロッパ:ノルウエー、イングランド (14か国)



エイタン・シシコフ師の基調メッセージ
 

多くの友人の皆様にお会いでき、感動しています。マタイ伝23章39節のヘブル語「バルー・ハバー」は「ようこそいらっしゃいました。」と、来客者に語る挨拶でもあります。皆様に改めて「バルー・ハバー」と申し上げます。
さて、マタイ伝23章39節には「わたしは言っておく、『主の御名(みな)によってきたる者に、祝福あれ』(ヘブライ語:バルー・ハバー・ベシェム・アドナイ)とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」とあります。かつて王妃エステルが神の愛によって導かれたように、私たちも神の前に歩み出て「主の御名(みな)によってきたる者に、祝福あれ」と、叫ぼうではありませんか。イスラエルが試練の中にあって、私たちが主の前に歩み出るのは、再臨のメシアを待望するに他なりません。エステルが、自らの命と引き換えに執り成したように、私たちも「執り成し」の使命があります。王の王、イスラエルの王の前で、その任を果たさなければなりません。
●主の召しに応える
1972年、ニューメキシコ州でヒッピー生活をしていたとき、イェシュアに導かれて神の計画を知らされ、イスラエルの救いを執り成す霊的召しにあずかりました。神がイスラエルを選んだのは「バルー・ハバー・ベシェム・アドナイ」と、私たちが心から叫び求める為であり、これはアブラハム、イサク、ヤコブの神との契約に関わり、メシアの再臨を受け入れる問題です。2000年の間、イスラエルはメシアを待望し続けてきました。メシアを待つことはイスラエルの歴史そのものなのです。
●捨てられた石が隅の頭石に
イスラエルの救い主は全世界の救い主であり、イスラエルの贖い主は、全世界の贖い主です。イェシュアを信じないことは、トーラーそのものを信じないことに等しいのです。マタイ23:39の御言葉は、詩編118:26の引用で、主自らイスラエルに主の家に帰るよう呼びかけ、主の恵みが如何に深いかを物語っています。詩編118:19-20で「私たちのために、義の門を開け、私はその内に入って、主に感謝しよう」とあります。そして同22-23では「家造りらの捨てた石は、隅の頭石となった」と語り、捨てられたメシア、王なるメシアのことを述べています。すべての国民のより所となる贖い主が、捨てられるという興味深いことが預言されているのです。ヤコブの12人の息子の一人ヨセフは、奴隷としてエジプトに売られ、異邦人の中で育てられ、やがてイスラエルの救いの為に用いられました。イェシュアも全く同じ運命をたどったのです。捨てられた石が、隅の頭石となったのです。
さて、メシアの苦しみと統治というジレンマについて、ユダヤ人学者が論じています。彼らの解決は二人のメシアがいるというものでした。一人は、メシア・ベン・ヨセフと今一人は、メシア・ベン・ダビデです。ベン・ヨセフは、兄弟の手で苦しんだヤコブの息子のような状態でやって来ると考えられ、ベン・ダビデは、神の敵をすべて征服し意気揚々と、王として迎えられると考えられました。有名な人類学者である作家のラファエル・パタイ博士は、著書「メシア論」で、何世紀にもわたる多くのユダヤ教の資料から、古代神話の調査について書いています。著書で彼は、二人のメシアの両面を成就したのが、ナザレのイェシュアであると考えました。「メシア・ベン・ヨセフ」という題名で、ダニエル9章24〜26節を引用して、ダビデの子、ヨシュアの苦しみと死はメシアの死と述べているもので、次に、メシア・ベン・ダビデは彼の後にやって来て、イスラエルに究極の大勝利をもたらすと著したのです。ヨセフの預言には、異邦人の支援によって彼が重大な役割を果たすと述べています。
さて、アモス8:11〜12には「主の言葉を聞くことのききんである。」とありますが、エジプトに売られたヨセフによって飢饉をまぬかれたイスラエルですが、今も霊的なききんにあり、この民に対して皆様の光を輝かせて頂きたいのです。ヨセフがエジプトという異邦人の中に捨てられて初めて、兄弟たちは彼が自分たちの真の弟であることを理解しました。異邦人なくしてこの様なドラマは起きませんでした。この事実は、ロマ11:15には「もし捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受け入れられることは、死人の中からいきかえることではないか」の通り、捨てられたイェシュアを現代のユダヤ人が受け入れていることにあたるのです。
ダビデの偉大な息子であるメシアの聖書的根拠は、サムエル記下7章12〜16節の「あなたの身から出る子を、あなたの後に立てて、その王国を堅くする・・・あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう」や歴代志上17:7〜14で書かれ、明らかにダビデの息子が、イスラエルから全世界を治めるために来ることを理解していたのです。
●聖地イスラエルへの帰還
「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」(使徒1:6)と弟子が尋ね、師は「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるだろう」(同8節)と答えています。この計画に、私たちも加わっていることに注目して下さい。
さて、エレミヤ30:8〜9には「万軍の主は仰せられる。その日わたしは彼らの首からそのくびきを砕き離し、彼らの束縛を解く、異邦の人はもはや、彼らを使役することをしない。彼らはその神、主と、わたしが彼らのために立てるその王ダビデに仕える。」とあり、エレミヤは明確にダビデ王、メシアに言及しています。ここで「その日」について、エレミヤ31:1で「その時わたしはイスラエルの全部族の神となり、彼らはわたしの民となる」と記し、8節でも「見よ、わたしは彼らを北の国から連れ帰り、・・・ここに帰ってくる」と約束しています。そして、エゼキエル37章には「谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた」が、「わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす」と述べています。私たちはこれらの骨に向かって「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と叫ばなければなりません。そして同25〜26節で「わがしもべダビデが、永遠に彼らの君となり、わたしは彼らと平和の契約を結ぶ」と語り、更にホセヤ3:5で「イスラエルの子らは帰って来て、その神、主と、その王ダビデとをたずね求め、終わりの日におののいて、主とその恵みに向かって来る。」など、多くの聖句でイスラエルの帰還を預言しています。この預言の通り、イスラエルは主の下に帰らなければなりません。また、ゼカリヤ9章9節では「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ、見よ、あなたの王はあなたのところに来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。」と語っています。そして、イザヤ9章6〜7節で「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた・・・ダビデの位に座して、その国を治め」と預言しているのです。メシアの再臨のために、イスラエルは父のもとにかえらなければなりません。国を復興する要素であるイスラエル国家は既に成っているのです。
●主にあって一つとなる
私たちと皆様が一つとなって、この預言を成就しなければなりません。これは「望む」だけではなく、本当に「実現しなければならない」事柄なのです。エステルの時もそうでした。エステルは自分がユダヤ人であることを知って、謙虚になって立ち上がり約束の成就のために王の前に進み出ました。神は絶対に約束を破らない方であり、メシアニック・ジューは皆様を必要としているのです。メシアの再臨は、神と神の民との契約の成就を意味するからです。
さて、私は結婚式の司式をしたことがありますが、ユダヤ人の結婚式で花婿がフツパ(天蓋)に近づいた時、司式者は「バルー・ハバー・ベシェム・アドナイ」という言葉を宣言します。主にあって一つとなる為に、イェシュアはフツパに近づこうとしておられます。小羊の晩餐は間近に迫っているのです。「主よ、きたりませ!」
私たちは、皆様と一つになることを心から願っています。

  アビシャロム・テクレハイマノット師のメッセージ
 

私は、エチオピアのジューイッシュ・コミュニティーで成長し、イスラエルに帰還してから大学を卒業し兵役に就きました。当時エチオピアは共産主義国家で、とても信仰ができる状態ではありませんでした。イスラエルに帰還してから心がかわき、自分のルーツを追い求めました。自分自身にかわいていたのです。3年かけて言葉を学び、イスラエルで何があるのかを求め続けました。それは、イスラエル民族に属する者として、自分自身のアイデンティティーを知る必要性に迫られ探し求めたのです。やがてガリラヤで自分がパズルの一つで、イエスを伝えるユダヤ人として、そのビジョンが与えられました。そして、出エジプト3章に書かれているモーセを導く神の様に、エイタンを通して召しにあずかったのです。今、オハレー・ラハミームには、19か国の人が働いています。私はヘブル語で子供たちを指導していますが、家庭においてヘブル語を話さないことが問題になっています。また人道支援活動やユース・グループを導いていますが、その大切さに触れたいと思います。
●関係を築き近づく
イェシュアの再臨を待望する終わりの時が来ました。そのために備えるべきことを二つ申し上げます。それはまず「関係を築き」、そして「近づくこと」、つまり親密になることです。マタイ24:44〜45には「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」とあり、同25:34には「世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。」ともあります。それを心から受け入れるには、「これらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」の御言葉を心においた、日ごろからの人道支援活動が大切なのです。
エステルは、イスラエルの存亡にかかわる重大な時に、王妃の服を着て王宮の内庭に入り、王の広間に向かって立ちました。王はエステルが庭に立っているのを見て、進み出ることを赦したのです。しかし、エステルは、召されていないのに内庭に入って王のもとに行く者は、必ず殺されることを知っていました。しかし危機にあるイスラエルを救うために、彼女は決心していたのです。民族を救う為には、王との関係を築くことがどうしても必要であると決意して、王の内庭に進み出たのです。それは、ヘブル4:16にも「私たちは、憐れみを受け、また、恵みに与って・・・はばかることなく、恵みの御座に近づこうではないか」とある通りです。人道支援は恵みの心を現わし、相手の心に近づく行為なのです。
●人道支援活動の意義
恵みは、人々を導くのに本当に必要なことであり、互いに共有することが大切です。かつて、ヤコブの12人の息子の中の11番目でラケルが生んだ最初の子、ヨセフは、ラケルの特別の愛を受けたことで兄たちに憎まれ奴隷としてエジプトに売られ、数奇の運命をたどりました。しかしこのヨセフはメシアのひな型として、王に近づくための使命が彼の人生となったのです。やがて、与えられた王としての権威を用いてイスラエルを救うことができました。彼の人生が「関係を築き」、そして「近づき」、恵みの心を示すことができたのです。私たちは現在、人道支援活動を通して地元の市役所と関係を築き、困難な過程を通して彼らに近づくことが出来ました。困難な時にこそ、トイレット・ペーパー、おもちゃ、水、食料など、本当に必要とされているものを提供して関係を深めてきたのです。王に対抗するために、モルテカイ、エステルらが備えられたように、私たちも戦略を用いて来るべき時代に備える必要があるのです。

 

  ダン・ジャスター師のメッセージ
 

アジアから、沢山の参加者をいただき驚いています。1991年に、ティックン・ミニストリーを結成しました。その目的は、エイタン・シシコフとアシェル・イントレーターをイスラエルに派遣し、ティックンとジューイッシュ・コミュニティーを結ぶためでした。彼らは、オハレー・ラハミーム、リバイブル・イスラエルとして大いに成長してくれました。その間ティックンは、様々な形で彼らの働きを支援し、インターネット等を通じて多くの情報を発信してきました。
●一つの国を興す
祈りの働きは、聖地において非常に成長しています。イザヤ26章の「門を開いて、信仰を守る正しい国民を入れ・・・この国民を増しくわえられる」の通り、一つの国を起こすための活動であって、それ故に諸国に信仰を述べ伝える必要があります。イスラエルはかつて離散を余儀なくされましたが、今や多くの人が帰還を赦されています。これは全てメシアの再臨のためであり、起こされる国とは「もろもろの国びとの光となし」(イザヤ49:6)とある通り、神の光としての国を意味します。ユダヤ人は、北から西からこの国に帰ってきました。1世紀のイエスの時代には、人口の三分の二はユダヤ人が占めていました。それから離散が始まったのです。彼らは聖地を離れこの地は、ローマ、オスマンの占領が続きました。諸国に散らされた民族には、過酷な迫害が待っていたのです。ホロコーストでは、600万人が犠牲となりましたが、私たちはこれをどのように考えるべきでしょうか。聖書において神は、イスラエルは聖地に帰るべきと記しています。やがて離散は終わり、多くの民が約束に従って聖地に帰還しました。その目的は、主の再臨のためなのです。
●イスラエルの現状
先日ベツレヘムで、Christ at the check point と題した会議が開かれ、数人のメシアニック・ジューが参加し、客観的な見解を述べる機会がありました。西岸地区、東エルサレムに住むパレスチナ人クリスチャンとイスラム教徒への不法な嫌がらせが会議で報告され、彼らの証言は具体的かつ痛みの伴うものでした。チェックポイントでの出来事は、現状における一つの課題です。チェックポイントは、テロ、不適切な労働者の流入を排除するためですが、しかし、チェックと称して彼らを長く待たせて本当に良いことなのかと思います。考えるべきことは、イスラエルはガザでの占領を終え、ハマスやミサイル攻撃などテロの防衛に限定すべきです。パレスチナのクリスチャンにとって「ユダヤ人の選び」や「イスラエルの聖地への帰還」について理解することは難しいことですが、彼らは聖地に「共存」することを願っています。しかし、会議全体は愛に包まれ大変良い雰囲気でした。メシアニック・ジューの参加者は「選びの民」として、また「預言の成就」として、聖地にユダヤ人が存在することの意味を強調し見解を述べました。反発もありましたが、参加者から支持を受けました。事実、レビ記25章の通り聖地は「わたしが与える地に、あなたがたがはいったときは、その地にも、主に向かって安息を守らせなければならない・・」や、同55節の「イスラエルの人々は、わたしのしもべだからである。彼らはわたしがエジプトの国から導き出したわたしのしもべである」として、明確に神の約束を語っているのです。
●求められる悔い改め
レビ記26章で神は、偶像を造ることをやめ、安息を守ることを強く求めています。イスラエルは帰還を赦されましたが、パレスチナ、アラブ人の兄弟の声は、イスラエルの悔い改めを求めるものとして受け取るべきです。実際私たちは、主の前に悔い改めなければならないのです。チェックポイントでの出来事は、パワー・ハラスメントと言うべきで、正統派、シャスは常に彼らに対して強い態度に出ています。しかしテロの事を考えると、無下に批判はできません。現にイスラエル政府は、常に周りの敵に戦いを挑まれ、敵の背後には、イラン、レバノンが絡んでいるのです。一方、テルアビブでは、カリフォルニアのように同性愛者による行進が行われたりして、聖地もひどい状態にあります。イスラエル経済も、土地価格の上昇、税の高騰、ストライキなどがあります。こうした現実を前にして、聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。
●イスラエルに対する導き
預言書には、諸国に離散していた民がユダヤ人として祝福と歓びをもって帰還するとあります。しかし、エゼキエル38,39章には、メセクとトバルの大君であるゴグが大軍を率いて攻め上ることが、帰還した後に起こると語っています。私たちには、本当に悔い改めが求められています。エゼキエル39:7と18には「わが聖なる名を、イスラエルの内に知らせ」、「彼らは私が彼らの神、主であることを悟る」とあり、また同36:24には「あなた方を諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなた方の国に行かせ、清い水をあなたがたに注いで、偶像から清める」と記しています。私たちは主の恵みによって聖地に帰還しましたが、主の導きに対して心から悔い改めなければなりません。そして、いたく枯れた骨として、神の霊が注がれなければならないのです。ゼカリヤ12:2〜3では「見よ、わたしはエルサレムを、その周囲にあるすべての民をよろめかす盃にし」、「その日には、エルサレムをすべての民に対して重い石とし、これを持ち上げる者は、みな大傷を受ける。」とあります。
今、聖書に記されている戦いの時代にいます。ゼカリヤ14章では主の日が来ることが書かれ、そこでは万国の民が集まり、エルサレムが攻め打たれるとあります。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。全ては、イスラエルの悔い改めのためです。そしてその後に、メシアが来られるのです。ロマ11章には「神はその民を捨てたのであろうか。断じてそうではないと」あり、11節では「救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである」と語っているのです。
●終末預言
黙示録7:4には、「イスラエルの子らのすべての部族のうち、印を押された者は144000
とあります。また黙示録11章には、大地震のことが言及され、これはゼカリヤ14章にも書かれています。「エルサレムに大地震が起こり、都の十分の一が倒れ、生き残った人々は、驚き畏れて、天の神に栄光を帰した」とあります。また15節では、第七の御使いが、ラッパを吹き鳴らし「この世の国は、我らの主とそのキリストとの国となった。主は世よ限りなく支配される。」と述べています。私たちは、これらのために備えなければなりません。全てはイエスの名によって起こるのです。メシアニック・ムーブメントは、144,000の額に名が記されることと深い関係があります。本当の苦しみ、国難はこれからやって来ます。イスラエルは新しく生まれ、メシアを受け入れ、新しい聖地として生まれ変わる必要があります。メシアニック・ムーブメントは大きな目的を持っています。全てが救われ、神の国の成就のために、私たちは互いがパートナーでなければなりません。

 

アシェル・イントレーター師のメッセージ

 

今朝は、「王の栄光」が記されている詩編24編全体について語りたいと思います。ゼカリヤ9:9、ヨハネ1212〜15に「その翌日・・・しゅろの枝を手に取り、迎えに出て行った。ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に。イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。」と著し、主イェシュアは栄光の王としてロバに乗り、エルサレムに入場されます。私たちは今、イェシュアのために門を開かなければなりません。そこでまず、イェシュアとは誰の事かを知る必要があります。イェシュアは死から復活した神の子であり、栄光の王として私たちの前に現れます。創世記から黙示録まで、神の計画は進展し、物質的なことから霊的なものへ、地的なものから霊的なものへと発展します。そして黙示録に至るまで、イエスが何ものであるのかを示し、そのプロセス全体を聖書は語っているのです。イェシュアは救い主のことです。そこで「救い」とは何かという問題です。私には彼の人生そのものが、彼が何ものであるかを示していると考えます。彼は神の子、ダビデの子であり、万物の創造の前にいた人格です。天地創造以前からいた方なのです。神の計画は全てこの人に集約されています。そしてイェシュアを通して、すべてのことは動いているのです。私たちは神の子であり、ダビデの子、そして救い主である方を知る必要があります。彼は罪から贖う人であり、天地の権威を与えられた人なのです。アブラハムからイェシュアに向かって、神は様々な計画をなされています。王であり、救い主としてイエスはこの地に再び来られ、この地を治めようとされているのです。この王国は決して滅びるものではありません。主は、マリヤに対してイエスは神の子、ダビデの子、王として来られる方であることを語り、やがて王としてエルサレムに迎えられる方であると述べています。これを理解するのが、教会の目的です。しかし、教会はイスラエルに対して様々な迫害を行ってきました。私たちは共にキリストの体としてつくられ、イスラエルを回復し、彼を王として迎えるべき時代に生きているのです。
●神の計画
神は計画を行うのに、二つの方法を用いています。私たちは神の計画全体を理解しなければなりません。ロマ11:25に書かれている通り、異邦人が全部救われるに至る時に、その恵みはイスラエルに及ぶのです。この20年、イスラエルの回復のために、エイタンと私はコングリゲーションを興し、イスラエルと諸国のために働いてきました。ヨハネ18:32には、イエス誕生の目的が書かれています。つまり「ご自身がどんな死にかたをしようとしているか」を語っているのです。そして36、37節で「わたしの国はこの世のものではない」と述べ、次に「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきた」と語っています。わたしは王として生まれ、すでに王であって、人のかたちを通って、天の王国を地に成就するために来たと明確に述べています。つまり、神の国をもたらすためなのです。神の国とは、王の権威があらわれているところであり、私たちの存在はエクレシアとして、王の権威をこの地に現わすために遣わされています。私たちは新しく生まれ、イエスに会い、彼にすべてをゆだねなければなりません。王なるイエスのために、一つとされたのがエクレシアです。国、文化、肌の違いはあっても、一人一人は、王の体の一面をあらわし、互いは愛によって調和される必要があります。教会がこのように満たされたとき、イエスにあって一つとされるのです。今教会は、神の国の実現のための重要な段階にあります。イスラエルが回復され、互いが一つとされるとき神の国は実現するのです。どうかこのビジョンを受け入れて下さい。
●十字架の意味
ヨハネ19章には、何故イエスは十字架に掛けられたのか述べられています。19:19〜20節にはその罪状書きがあり、多くのユダヤ人はこの罪状書きを読むことができたのです。それはヘブル、ローマ、ギリシャの国語で書かれていました。22節でピラトは「私が書いたことは、書いたままにしておけ」と命じています。それは王となるためであり、ユダヤ人の王として、宇宙の王となってこの地を神の権威で治めるためなのです。神の国の権威を示すために、この罪状書きは必要であり全ての世を治めるために、十字架は不可欠だったのです。
使徒行伝1:8で「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と語っています。イエスが救い主であり、私たちはその証人であることが示されています。彼はイスラエル、さらに世界の王であることをもう一度提示しなければなりません。「わたしの証人となる」とは、イスラエルの回復のみならず、全地の回復を意味するのです。
●主の完全勝利
教会は、天の王国の実現のためにイエスの語る、全地が新しくされる霊的側面を見る必要があります。黙示録1:13〜20に書かれている方は、イエスのことです。彼は、2000年前に起こされ、十字架を通して栄光の王として帰ってこられ、死をよみがえらせる鍵を持つ方です。私たちは門を開いて、栄光の王を迎え入れる責任があります。そこでまず、イエス、その方を知りそして教会とイスラエルは一つとなることが大切です。一つになって初めて黙示録1:17〜18に示されている「わたしは初めであり、終わりであり、また、生きている者である」ということを受け止めることができるのです。またそうであるが故に、私たちは、神の子、ダビデの子、栄光の王である方を受け入れなければなりません。黙示録19:11には「わたしが見ていると、天が開かれ」とあります。私たちは今や、その天が開かれる時代にいるのです。
さて、黙示録19:14には、天の軍勢のことが書かれ、19〜20節では、馬に乗っている
方とその軍勢とに対して戦いを挑んだことが記され、獣は捕えられたとあります。これは反ユダヤ主義が砕かれることを意味し、オリブ山に主が立たれるとき天が開かれるのです。その良き日の為に、私たちは備える必要があります。イエスが再臨し、天の御国がこの地に成就し、イエスがこの地を王として治めるための備えが求められているのです。それはイエスが勝利を治める時のためのものです。そして、獣の刻印を受けた者、その像を拝む者を惑わしたにせ預言者も獣と共に捕えられ、生きながら火の池に投げ込まれるのです。
主よ、御国の力でこの地を照らして下さい!十字架で悪魔の頭を砕き、勝利を治め、天
の門を開いて下さい。ハレルヤ!

 

 
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