国際聖会と執り成しの旅(10月14−24日)
テーマ:「バル・ハバー2013」

六回目を迎えた「聖会と執り成しの旅」(10月14〜24日)は、19か国から150人が集い、聖地イスラエルで開催されました。聖会を通じて、主催者、参加者相互の絆は一層深まり、約束の地に主を再び迎えるために求められる信仰について、改めて考える機会となりました。エイタン・シシコフ師のシャバットメッセージ、訪問したネツェル・ハガリル(ナザレ)のリーダー、ハサノフ・バキフ師の心を打つことばを要約します。

アブラハムと個人的なリバイバル           エイタン・シシコフ師
 

私は41年前、イェシュアに巡り合いました。言葉を交わした訳ではありませんが、目と目を合わせたのです。ニューメキシコ州の山奥で、深い悲しみに打ちひしがれ絶望の淵にあった時、自分では考えてもいなかったことでした。当時、罪や十字架に対して何の理解もなかった者でしたが、イェシュアに向き合ったとき神の赦しを知りました。私は神から離れて生きていましたが、「永遠とは何か」をいつも心にとめていたのです。
今日のトーラーポーションは、創世紀18:1〜22:24です。まず18:1で、主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れます。創世紀12章、17章に比べて、ドラマチックな出会いではありませんが、共通する事はいずれも主に犠牲をささげることを求めているのです。今日のパラシャには、出会いと犠牲という二つの要素が込められています。私自身が、コングリゲーションで語ってきたことの一つに、「個人的なリバイバル」があります。リバイバルとは、イェシュアと顔と顔を合わせる事です。なぜリバイバルは、メシアに焦点が置かれているのでしょうか。アブラハムは信仰と共に歩み、約束の子を授かりました。その子は、やがて現れるイェシュアのひな型なのです。創世紀18章で、主(アドナイ)と3人の人々が訪ねて来ました。アブラハムは地にひれ伏し、「主よ、もしあなたの目に恵みを見つけたなら」と語ると、彼らは、「わたしは必ずあなたの所に帰ってくる」と約束し、「サラに子が与えられる」と述べました。この出来事は、イェシュアが生まれる2,000年前の事です。神は、アブラハムと顔と顔を合わせて語られたのです。アブラハムに神が現れたことは、私たちにも現れるはずです。

●神と顔と顔を合わせる

私の好きな聖句の一つは、Uコリント4:6「イェシュアの顔に輝く神の栄光の知識」で、イェシュアにこそ、神の栄光が表れているのです。また民数記6:25にも、「主がみ顔をもってあなたを照らし」とあります。ところで、「顔」という事について出エジプト記25:30に、幕屋の中の机の上に、「顔(存在)のパン」という特別なパンが置かれていると書かれています。ヘブル語で「レヘム・パニーム」といい、口語訳聖書では「供えのパン」と訳されています。しかしパニームとは、「顔」、「存在」を意味し、アロンの祝祷(民数記6:23〜26)の中でも、「神の顔」という言葉が2回も出てきます。それだけ、顔と顔を合わせることは大切な事なのです。皆様も、神と顔と顔を合わせて下さい。恵みの天幕のネットワークや皆様との関係も、全てアブラハムと神とが出会ったように、神との出会いの場となるのです。関係があってはじめて、全ての物語は始まります。アブラハムはどの様に神とつながることが出来たのでしょうか。それは、「従う」という事でした。
ところで、神は人を創造し命の息をその鼻に吹き入れ、人を生きた者とされました。さらに、死んだ者をよみがえらせることもできるのです。エゼキエル37章には、「あなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす」とあり、いたく枯れていた骨に息を入れ、イスラエルを生かしたのです。ヘブライ語では、霊と息とは同じ「ルアハ」です。ルアハを吹き入れるには、神に近づかなければなりません。ヤコブ4:8の、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」とあるように。

●リバイバル

創世紀22章には奇跡と復活が記されていて、その10節で、神はアブラハムを試みるために呼びかけます。彼は、「ヒネニー」(はい、ここにいます)と即答します。この様に、神は一人ひとりの名前を現実に呼んでおられるのです。リバイバルとは、まず「聞き」、そして「こたえる」ことから始まります。申命記6:4には、「イスラエルよ 聞け」(シェマー・イスラエル)と、神は命じておられます。イスラエルはアブラハムの様に、神にこたえる必要があるのです。
さて、アブラハムがこたえると、12章で使われた「レフ・レハー」(行け)という強いことばが再び現れ、モリヤの地でお前の愛する子、唯一の子イサクを燔祭としてささげる様に命じます。まるで獣を殺すように、「屠殺せよ」(リシュホット)と命じたのです。人には全く理解できない命令です。このことばに従うには、自分の「思い」という命を殺してしまわなければとてもできません。私たち自身の思い(命)を犠牲にしなければならないのです。個人的に一番大切にしているものつまり、自分自身の思い(命)を祭壇に捧げる事が求められているのです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(ルカ9:24)とイェシュアも語りました。イェシュのために自分の命を捨てること、これがリバイバルの出発点となるのです。

●主に従い、主に委ねる
アブラハムは、非常に困難な決断を迫られました。神の意志を行うことの困難さです。ゲッセマネの時のイエスもまさに同じでした。「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。」(マルコ14:36)と、自分の思いではく主の御心に委ねたのです。アブラハムの行為は個人的なリバイバルだけではなく、歴史のリバイバル、全ての事のリバイバルを意味します。これらの事が行われた場所はモリヤ、つまりエルサレムです。イエスもエルサレムで殺され、そしてよみがえられたのです。こうして神が選ばれた場所にアブラハムが行ったように、私たちも神が選ばれた所に今いるのです。アブラハムが自分の愛するひとり子を、獣を殺す様にまさに殺そうとしたその時、主の使いが天から、「アブラハムよ、アブラハムよ」と2回も呼びかけました。アブラハムはここでも「ヒネニー」と答え、神に従ったのです。その結果、主は創世紀22:15〜18の通り、アブラハムとその子孫が敵の門を打ち破り、地のもろもろの国民はその子孫によって祝福されることを誓われたのです。私たちは神に従い、神に委ねるためにだけこの地にいます。主に従うということが信仰であり、つまりリバイバルなのです。ピリピ3:7〜10でパウロは、「キリストのゆえにわたしはすべてを失ったがそれらのものを、ふん土のように思っている。それはキリストを得るためである」と告白し、「キリストのうちに自分を見だすようになるためである」と証しています。
神こそ命の本源です。「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」(使徒17:28)のであり、それ以外に「生きている事実」はありません。こうして呼吸をしていることも、主が与えている命です。神から離れて生きることなどありえないのです。この事実を認め、神と共にある命を味わう時、神の国に生きているのです。そしてイェシュアにおいてはじめて、自分という思いを乗り越え、私たちが生ける神と一つである事実に導かれるのです。Uコリント4:10には、「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」とあります。是非ともこのみことばを受け止めて下さい。イェシュアのために自分を捨ててはじめて、イェシュアの新たな命に生きることができるのです。アブラハムは神の命令に従い、そして神に委ねました。イェシュアも同じように父に委ねたのです。
再臨の成就、御国をこの地上に成就するために、イスラエルは悔い改める必要があります。今、一人ひとりに個人的なリバイバルが求められています。主の栄光を現わすために、神と顔と顔を合わせ、日々「ヒネニー」と、その呼びかけに答えて下さい。

 
 

ネツェル・ハガリルの紹介             ハサノフ・バキフ師

 

私はレオン・マジン師の後を継ぎ、2010年からこのコングリゲーションを導くようになりました。現在メンバーは20〜25人程の小さなコングリゲーションで、メンバーの多くは旧ソビエトからの帰還者のため、ロシア語で集会をしていますが、必要に応じてヘブライ語でも語っています。 私たちの活動の一つであるスープキッチンは、市役所から要請を受け、アラブ人、ユヤダ人の区別なく約70家族を援助しています。現在ナザレでは、イエスがこの地で成長したことも知らない若者が多く、麻薬に手を出す者、密売人もいておおよそ「主の町」らしからぬ人々が多く生活しています。おしなべて、ナザレの町のイエスに対するイメージは、イエス在世当時とあまり変わらない状態で、時にこれが聖なる民の国なのかという疑問が湧いて、自分たちの弱さを感じることもあります。しかし私には夢があります。それは子供たちに神の真実を伝え、メシア・イェシュア以外にイスラエルの神がいないことを宣べ伝え、神の望まれる町をこの地に興すことです。そのために、人に頼むのではなく神により頼み、神の力を信じて人々を育ててゆきたいと願っています。どうか私たちの働きのためにお祈り下さい。

 
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