メシアニック・ジューと十字架

十字架は、長年、ユダヤ人迫害のシンボルになっていたため、メシアニック・コングリゲーションには、ほとんど十字架がありません。また、メシアニック・ジューの書いたものを調べても、十字架という単語を避ける傾向が顕著で、代わりに「メシアの犠牲」「贖いの血」などの用語が使われます。そこで、メシアニックの信仰は「十字架抜き」だということが、よく言われます。
しかし、実際彼らの十字架理解とはそんなに浅くはないと思います。十字架は、人間の知恵ではとうてい理解しがたい奥義ですから、異邦人でもユダヤ人でも完全に説明することはできません。しかし、十字架の背景にあるものを、メシアニック・ジューはよく知っています。 そこで、今日はイサクの幡祭、過ぎ越しの小羊のこと、それから大贖罪日のことをお話させていただきます。

イサクの燔祭

まずアブラハムがイサクを犠牲に捧げる下りは「アケダー」と言われ、ユダヤ教の中でも非常に重視されている部分です。皆さんと一緒に学んでみましょう。
自分の愛している子どもを犠牲にするという話は、日本では文楽や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」にもあります。子どもを何かのために殺すこと自体は、確かに大変なことではありましょうが、全く無いとは言えません。
しかし、この物語で重要なのは、アブラハムの子イサクは、神によって与えられた約束の子だったということです。アブラハムはその当時二人の子どもがおり、一人がイシマエルで一人がイサクでしたが、イシマエルは家を出ており、イサクだけが嫡子でした。イサクには、神のアブラハムに対する約束がかかっていたのです。イサクが死ねば、神の約束の成就自体が無効になってしまうのです。
子どもが一人死んでも、別の子が生まれればいいとお考えかもしれませんが、それでは筋が通らないのです。神は何度も何度も、イサクがあなたの世継ぎになると明言しておられるので、もしサラからその後に新たな子が生まれたとしても、約束は成就しないのです。それに、サラもこの時には100歳以上ですから、もう子供はありえません。
アブラハムに対して与えられた諸国民を祝福するという重要な約束の成就がかかっている、その子、しかもアブラハムが愛している子を捧げなさいという命令が神から出されました。このことが、この物語を理解する上で非常に重要です。これは、単なる人間ドラマではないのです。
神はアブラハムに「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」(創世記22:2)と言われます。
ここでユダヤ人のラビたちは、なぜ「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサク」と、わざわざ繰り返して特定しているのか、注目しています。神が「あなたの子」と言われましたが、この時点でアブラハムには2人の子がいました。どちらかと思わせておいて、次に、あなたの愛する子と、言い、最後にイサクと、3回で特定しています。これはアブラハムに対する神の心遣いを示していると、ラビたちは考えています。しかし、アブラハムはこの神からの言葉を聴くと、直ちに行動を起こしました。
ここでアブラハムは、朝早く起きて行ったというのがアブラハムの非常に素晴らしいところだと言われます。つまり全然この難しいことを先延ばしせずに行ったのです。
そして、アブラハムは神の命令に従い、イサクを燔祭にささげようとしたのです。そして、皆さんもご存知のとおり、神は使いを送ってそれを止められました。
アブラハムは当時だいたい120歳から130歳くらいと考えられていて、イサクは20歳前後でなかったかと言われていす。小さな子どもなら簡単に縛れますが、老人が若者を縛って、薪の上に乗せるのは不可能です。イサク自身が自分で薪の上に横たわったと言ったほうが正確ではないでしょうか。ここで会話は記録されていませんが、イサクはそれを悟ったのでしょう。アブラハムの信仰というよりイサク自身の信仰でもあったと思います。

イシマエルとイサクの不思議な対応

ところで、この事件の前に、21章ではハガルとイシマエルがアブラハムの家を追放されています。その記事と、イサクを燔祭に捧げる記事には、多くの奇妙な一致点があると、ラビたちが指摘しています。
21章の最初のところを見ますと、まず神から声がかかっています。イサクのときは幡祭に捧げよ、そして、イシマエルの時には追い出せということです。アブラハムはイシマエルも愛していたので、とても心配しています。その命令を受けて彼はすごく悩んだと思うのですが、それでもアブラハムは明くる朝早く起きて、それを実行しました。これがアブラハムのやり方なのです。
そして、21章17節には、神はそこにいる「わらべ」の声を聞かれたと書いてあります。わらべという言葉が、これは同じナアルという言葉で、次の22章でもやはり、同じ言葉が使われています。22章5節「私とわらべは向こうに行って」と。ヨセフシュラム先生の『隠された宝』という本には、同じ単語が同じ用法で使われていたら、それは関連したものと解釈しなさいという原則が書かれています。朝早く起きること、「わらべ」という単語、この二つを見ただけでもこれらの物語に関係があることがわかります。
さらに、子どもに危険が迫ると、天使が声をかけることも共通です。ハガルのほうは、声がかかったときに目が開けて井戸があることがわかります。アブラハムの方は、声がかかった時に、角を藪にひっかけている羊を見つけるのです。その苦難を経験したあとで「大きな国民になる」という約束が与えられることも共通です。
現在、ユダヤ人とアラブ人は敵同士になっていますが、彼らはちょうど光と影のようにセットになっている民族であり、イザヤ19章の預言のように、最後には共に祝福を受けるのです。

羊に関する物語

さて、イサクの代わりに死んだ羊は、最後に創造されたというユダヤ言い伝えがあります。その羊は、最初の安息日の直前に作られました。その真っ白の羊はエデンの園にずっと置かれたと。ところがこの時に初めて羊に声がかかったので、真っ白の羊はエデンの園からアブラハムのところまで走って行って、喜んで殺されたというのです。羊は、まさに死ぬ時にアブラハムに対して「私の角を記念に取っておいてくれ」と言ったので、アブラハムはその角でショファーを作りました。そのショファーこそは、シナイ山で律法が与えられた時に吹き鳴らされたショファーだというのです。そして、その羊の皮から作られたのがエリヤの衣で、腸から作られた弦がダビデの竪琴の弦だと言われます。
イサクの幡祭とショファーが関係しているというのは、多くのラビ達が言っていることです。ショファーを吹き鳴らす時、ユダヤ人たちは自分たちが死ぬ代わりに、真っ白の羊が死んだのでことを思い出し、神にあわれみを嘆願するのです。そういう意味がショファーにあると、ユダヤ人たちは言っています。
ユダヤ人にはイサクの幡祭が潜在意識の中に刻み込まれていて、それが十字架の一つの背景になっています。
イエスの十字架とイサクの燔祭の共通点を、簡単にまとめておきましょう。

まずイサクもイエスも天使によって特別に誕生が予告されていました。それから奇跡的な妊娠をしています。イエスの場合は処女から生まれ、イサクの方もサラが超高齢で妊娠しました。それから両方とも8日目に割礼を受けました。このイサクは殺されることになってから3日目に、いわば「復活」しましたが、イエスは三日目に復活しました。イエスは十字架を背負って歩きましたが、イサクも自ら燃やされる薪を背負って歩きました。イエスは十字架という木につけられ、イサクは薪の上に置かれたのです。
イサクの身代わりの小羊を神ご自身が用意されましたが、イエスの場合はイエスご自身が人々の罪のために与えられた小羊でした。ですから、実際に殺されたのは、どちらも代償犠牲であります。イサクの幡祭とイエスの十字架はイコールではありませんが、非常に深い関係があります。 神はユダヤ人に最初に型を見せ、将来起こる出来事の準備をされたのではないでしょうか。

過越の小羊

そして次に、過越の祭りについて考えて見ましょう。祭に参加された体験のある方は良くお分かりだと思いますが、イエスの十字架と過越の祭は、非常に深く関わっています。メシアニック的な十字架理解において、過越の祭は重要です。私たちクリスチャンは復活祭で十字架を記念しますが、メシアニック・ジューは、過越の祭を通じて祝うのです。
過越の祭、エジプトの奴隷状態からの開放が、小羊の死に関連しています。奴隷からの解放は、罪の奴隷からの解放の型です。その業を成就したイエス・キリストの十字架を、メシアニック・ジューたちは祝います。過越の祭に出てくる非常に多くの象徴を話すと時間が足りなくなるのですが、例えば3枚のマツァの真ん中を取って二つに割るとか、それを隠しておいて後で発見するとか、あるいはそれが契約の血を象徴するものとか、現在残っています過ぎ越し祭りのパターンの中に十字架に関連したテーマがたくさんあります。
過越の祭りの風習が確立したのは8世紀とか10世紀とか、ユダヤ人とキリスト教の関係が断絶してから後のことです。しかし、その風習の多くは、十字架の前にすでに確立していたものなのです。イエスの十字架の前に、旧約聖書の様々な預言から、ユダヤ人たちは過越の祭とメシア来臨の関係を見抜いていたのでしょう。

奴隷状態からの解放に、小羊の血が流されたことを毎年覚えているユダヤ人たちにとって、「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル9:22)という原理は、極めて当然のことなのです。また、「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。」(Ⅰコリント5:7)など、新約聖書は十字架の原理を過越の祭をモチーフにして説き明かしています。過越の祭は、種なしパンの祭と共に祝われるので、祭に先立ってパン種を家中から取り除くために大掃除をします。この風習を理解していなければ、この聖句は理解不能でしょう。
これらの主題は、メシアニック・ジューたちが好んで取り上げるものです。確かに「十字架」という言葉は使われる確率が少ないですが、その本質は十分に語られているのです。

大贖罪日の山羊

最後に、大贖罪日の贖いのヤギという定義というのがあるのです。このテーマについてはあまりご存じない方が多いかと思いますので詳しく説明したいと思います。
新約聖書の中では十字架は二つの祭りに関連して語られます。その一つは、さきほど述べた過越の祭ですが、もう一つは大贖罪日(ヨムキプール)です。
ヨムキプールの祭では、非常に奇妙な犠牲がささげられます。この祭は、秋の9月から10月くらいに祝われます。過越の祭は楽しい祭ですが、ヨムキプールは1日断食をする厳粛な祭で、絶飲絶食をします。
昔、神殿があった時代は、ヤギを2頭準備しました。その2頭は、ほとんど、重さも毛の色も大きさも同じでないといけないのです。そして2頭をくじ引きにします。片方には「主のため」と、もう一つのくじには「アザセルのため」と書いてあります。そのくじは、エルサレムの神殿研究所と言う所に行くと、模造品が展示されています。
大祭司がくじを引き、「主のため」とされたヤギを神殿で犠牲に捧げ、次に「アザセルのため」とされたヤギをエルサレムの郊外の崖のところまで引いていくのです。大祭司が、この上に私たちのすべての罪を置きますと手を置いて宣言し、それからヤギを郊外に引いていきます。このヤギを引いていくのは大変な行事でありまして、100メートル間隔で食べ物と水とが置いてあるそうです。何故かというと、すべての罪をヤギの上においているわけですから、もしヤギが途中で死んだら大変なことになるのです。だから絶対に死なないように、食べ物と水とが置いてあるのです。人々が郊外まで行って、崖から野に放つというか、突き落とすのです。そして、罪の贖いが成就するのです。
ちなみに、その時に最初に殺したヤギの血を白いさらしの布につけ、血染めの布を神殿の扉にくくりつけておいたらしいのです。そうしますと、ヤギを郊外へ連れて行ってがけから落とした瞬間に、それが白くなったと言い伝えで書いてあります。イザヤ書の最初の「あなた方の罪は緋のようであっても、雪のように白くなる」という御言葉は、それを指すとも言われます。しかし、白くならない時もあって、その時は罪が贖われなかったと言って、民は悲しんで帰って行ったそうです。これは、ヨセフ・シュラム師の速記録にも書かれています。

メシアニック的十字架論の特徴

新約聖書の中に「自分の十字架を負って私に従ってきなさい」という御言葉が何度か繰り返されています。考えて見れば、これは奇妙なことで、イエスキリストの十字架が完全な贖いの行為であるならば、私たちがすべきことは感謝することだけです。それでは、なぜ自分の十字架を負いなさいとイエスは命じているのでしょうか。
メシアニック的十字架論でも、私たちは代価を払って買い取られたことは同じです。しかし、そこで話が終わらず、私たちは代価を払ってもらった「恩義がある」ということを強調するのです。
例えば私が非常に大きな借金を作って、その借金が払えない状態だとしましょう。そこに誰かが来て、その借金を肩代わりして払ってくれた場合、普通の人間ならすごく恩義を感じて、その人のために何かしようと考えるでしょう。
だから日本的に言えば「タダほど高いものは無い」といいますか、恵みを与えられた者の義務という点を、すごく強調されます。やっぱり犠牲というものの意味をよく知っているユダヤ人だからだと思うのですが。

贖いの山羊とユダヤ人

イエスの負われた十字架と、私たち人間、特にユダヤ人の負うべき十字架と、一体どういう関係があるのでしょうか。これについて、興味深い話をベンジャミン・バーガー師が来日セミナーの時にしておられます。その中でユダヤ民族ホロコーストとは何のためにあったのかという話しを彼はしておられたのです。
どうしてユダヤ人があんな苦難を経験しなければいけないのか、という点は、誰もが疑問に思うところです。そのことについてバーガー師が出された結論は、この大贖罪日の二頭のヤギの一頭がメシアで、もう一頭がイスラエルなのだと言われたのです。最初は驚いたのですが、これは考えてみれば筋の通った話なのです。実は、他にもこの見解を出しておられる方がいるようです。
ペアの犠牲は、完全に大きさが同じで体重も同じで、色も同じでなければいけません。片方の犠牲ともう一方の犠牲とは、同じものなのです。そして、メシアとイスラエル民族は、ちょうど光と影のように表裏一体の関係にあります。イスラエル民族全体を象徴しているのがメシアであり、イスラエル民族の使命を成就するのはメシアなのです。
パウロはガラテヤ3章で「子孫たち」と複数形で言わずに、子孫を単数形で言っていると指摘した上で、それはキリストのことなのだと言っているのです。複数形で子孫というのと、単数形で子孫というのは実は同じであると。逆に、神の約束がイエスにおいて単数形で成就したことが、後にイスラエルという複数形でも成就するのです。
イエスだけで成就したから、イスラエルは意味を失ったのだと多くの人は考えましたが、そうではありません。もしそうでないなら、イスラエル民族がこの2000年間も続いているはずがないでしょう。神はイエスという単数形においても約束を成就し、またイスラエルという複数形においても成就させる計画なのだと思います。

「スケープゴート」という英語の単語は、まさしく贖いのヤギという意味です。そして、この言葉はユダヤ人に使われて来ました。彼らは罪をなすり付けられて殺されるという運命を2000年間続けてきたのです。伝染病がはやったのも、金融恐慌も、すべてユダヤ人が悪いのだと。
もしイエス・キリストが2000年前に十字架につけられて、素晴らしい贖いを成就されたとしても、もしイスラエル民族が今まで生き残っていなかったとしたら、こんな新約聖書など、たぶん嘘だと多くの人が考えるでしょう。

でも私たちはイエスキリストの十字架が成就し、それを受け入れなかった人々が、ずっと神ののろいを受け続けているという、この事実を見ることによって、十字架が確かなもので神の約束を果たされるつもりなのだと知ることができます。
その意味で、イザヤ書53章の苦難の僕は、イエス・キリストのことであると同時にイスラエル民族のことなのです。イザヤ書53章に書かれているあの苦難は、イエスにおいて成就したけれども、そのことを今の時代において私たちに見せているのがイスラエル民族ではないかと思うのです。

ヨナの苦難と宣教

神に背いたものが受ける苦難を、すべての人々に示すのは重要です。私たち異邦人は、ユダヤ人に劣らずかたくなで、なかなか悔い改めません。しかし、異邦人が大量に悔い改めたというのは聖書の中に一つだけありまして、何万人もの異邦人がたった1日で悔いあたらためたという話がヨナ書に出てくるのです。
ニネベは、単に一巡するだけで3日間かかると書いてあるほど大きな町です。そこら辺にいる人間を捕まえて、あなたの生き方が間違っていると言って悔い改めさせるというのは並大抵のことではありません。一人の人間に一日かけて福音を語って、あなたの生き方が違ってると言って、それで悔い改めるか悔い改めないかです。たぶん悔い改めない確率が高いのではないでしょうか。
ところが、12万人もの人がどうしてわずか一日で悔い改めることができたのか。その理由は1つしかありません。ヨナの体験です。ヨナは鯨か魚に食われて、命からがら3日目に吐き出されてニネベの街まで来ました。髪の毛がぼろぼろで服もぼろぼろ、ひどい状態だったでしょう。そういう人がやってきて、「私は神から、ここの街が40日目に滅びると言えと命じられたが、そんなことは嫌なので逃げた。しかし、神は嵐とクジラを送られたので、仕方なしにここにやって来た。こんなことは言いたくはないが、40日経ったらこの町は滅びる」と彼は言ったのです。その話を聞いて、町の人々はふるえ上がったのです。普通、街が滅びるという話を聞いたら、だいたい皆さんはどうしますか。もっとも合理的な解決策は、すぐに家財をまとめて引っ越すことであって、悔い改めではありません。だけど、誰も引っ越さなかったのです。何で引っ越さなかったのか。町に行って人々に警告しろと言われた人でさえ、地獄の責め苦に遭わされるとすれば、実際に罪を犯した人間が、引っ越したぐらいで赦してもらえるわけはありません。
これは逃げてもだめだ、悔い改める以外にないと、みんなはそう観念した訳です。でもそれはヨナの苦難があったからこそです。イスラエルの持っているメッセージも同じです。イスラエルのラビたちは、あのヨナの運命はイスラエル民族の運命を予表しているのだと考えましたが、私はラビの解釈が正しいと思います。

ホロコーストの運命を見て、ユダヤ人がアホやったと言うのは簡単です。でもユダヤ人はまかりなりにも神を信じていたのです。それにもかかわらず、あれだけの神の怒りが下ったとすれば、私たちは新約の福音無くして神の怒りから救われることができるでしょうか。だから、全ての人はニネベの人々に習って恐れおののいて、悔い改めるべきなのです。
私たちが十字架について学ぶ時、イエスキリストの十字架のまだ足りない部分を、イスラエルの人々がは民族の苦難を通じて語っていることを、覚えるべきではないでしょうか。

私たち自身の命が、すでに殺されているというのが十字架の恵です。しかし、そのメッセージを完結するのは、イスラエルの苦難なのです。

今日は、旧約聖書に預言された十字架の様々な型を、イサクの燔祭、過越の祭、大贖罪日、そしてヨナの宣教を通じて学びました。今日、お話ししたことは、クリスチャンが確立した十字架に関する教えを変えるものではなく、それを補強し、深めるものとして受け止めていただければ幸いです。

石井田 直二(シオンとの架け橋)