イスラエルとかかわって見えてきた「選び」の意味

選びというテーマに多くのクリスチャンが関心を持つのは、自分の努力だけでは変えられないからです。聖書には選びという考え方があるので、私は選ばれているのか選ばれてないのかと考えます。自分の救いという点から考えると、選ばれていないと救われていないのだから大変なことで損な話、選ばれていたら得ということになります。ところがこの選ばれている方が得と考えるのはクリスチャンたちの中での話しで、神の「選民」であるユダヤ人は選ばれていることが得だとは思っていません。彼らは選民であるが故に迫害や苦難にあって、良いことはほとんどなかったのです。

選びについての2つのポイント

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16) 

クリスチャンの大部分は、自分の意思で「信仰しよう」と決心しました。ところが、この御言によれば、私たちはキリストによって選ばれています。しかも、キリストは「あなたがたがわたしを選んだのではありません。」と、自分の意思での選択を否定しています。これは、どういうことでしょうか?

もし私たちが、自分が救われるためだけに選ばれたのなら、それは「えこひいき」以外の何物でもありません。キリストは、そのような「不公平」を行っておられるのでしょうか?わたしたちは選ばれただけでなく、任命されています。一体何のために任命されたのでしょうか?

主が私たちを選んだ

私たちは、まずキリストによって選ばれています。私たちはキリストによって先に選ばれているという事実を、「自分たちが選んでいる」かのように経験させられているのです。

キリストが私たちを選んだので、私たちがキリストを選んだのではないというのは、私たちの実感と全く違うように思えます。第一世代で自分からクリスチャンになった人は、多分何らかの理由で自分がクリスチャンになろうと決心したのだと思います。私はクリスチャンホームの出身ですが、クリスチャンの子供に生まれた人が全員クリスチャンになっているわけではなく、私にも自分の意思でやると決めた時がある。このように、本人が自分の意思で選んだと考えると「あなたがたがわたしを選んだのではありません。」と断言するイエスキリストの発言と矛盾が生じます。

「選ばれる」とはどういうことか?

「選民」と言われるユダヤ人は民族単位で選ばれており、旧約時代には、現在のキリスト教で行われているような、未信者一人一人に対する伝道はありませんでした。しかし、預言者など誰かを特に任命するときは、神ご自身や神の使いが直接その人に働きかけました。実は、現在私たちが行っている伝道は、これとよく似ています。伝道活動をしているクリスチャンは「教会はキリストのからだであり、」(エペソ1:23)と書かれているとおり、キリストご自身のからだです。つまり、伝道している人がどう思っていようと聖書の観点から見れば、キリストご自身が直接伝道し、選んだ人を「任命」していることになるのです。

神はイスラエルをエジプトから導き出すためにモーセを任命した時、「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。」(出エジプト3:12)と語り、神がモーセとともにいることを約束しており、ヨシュアを任命した時にも同様の約束(ヨシュア1:5)をしています。これは、私たちクリスチャンでも同様です。キリストに「任命」された私たちには何らかの目的があり、そのためにキリストがともにいる事が約束されています。

いつ選ばれたのか?

「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、」(ガラテヤ1:15)という御言からわかるように、パウロは生まれたときから選ばれていたと考えていました。彼は回心するまではイエスキリストの弟子たちを迫害していた人物です。ですから回心したときに選ばれて、そこから悔い改めたというのだったら分かりやすいのですが、パウロは母の胎内にあるときから選ばれていたと言うのです。

パウロはこの手紙を書くとき、エレミヤ1:5を思い浮かべていたのではないかと思います。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」本人は知らなかったかもしれないけれど、生まれる前から神はエレミヤを選んでいたのです。私たちも今召されてクリスチャンになっているならば、パウロと同様に生まれたときから選ばれていたということになるのです。

日本人は、クリスチャンは1パーセントと言われる少数派です。このような状況で聖書に触れる機会を与えられることだけでも「選び」と言えます。そして、聖書に触れ、そのメッセージを聞いたとしても、その中でクリスチャンになる人は少数です。クリスチャンになる人の多くは、生き方や精神的な指向性があっている人たちです。何か聖書に魅力を感じる性格を与えられているという「生まれるとき」からの「選び」が働いているのです。

パウロやエレミヤは、まさに人生のある時点から神に用いられるために、その機会と、そのための性格が与えられていた。そういう計画の中に、ずっと生かされてきたと考えていたのだと思います。だから、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、」と言うことになるのです。

キリストも「任命」したあなたと共にいると約束しています。私たちが御心に従いたいという意識を持っているとすれば、それがキリストご自身の意識でなくて何なのでしょうか?私たちが聖書を学びたいと思っていて、キリストに何らかの形で仕えたいと考えていることが、キリストご自身が私たちと共におられて私たちの中で働いておられることの証拠なのです。私たちはキリストご自身によって選ばれ、「任命」されているというしるしを与えられています。クリスチャン全員は、キリストの意思を自らの意思として、キリストのからだに加わっているのです。

イスラエル、そして全世界の救いのために

イエスは私たちを「任命した」と語りました。ヨセフ・シュラム師は、「神が誰かを選ぶとしたら、それは第三者の為だ。その人自身のために選ぶのだったらこれはただのえこひいきだ」と言われます。私たちが自分自身の利益のために選ばれたのではなく、選ばれ任命されたものとしてその目的のために力を尽くして働く義務と責任があるのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、」の続きに、「あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、」と書かれています。つまり、私たちは「任命」されて、「行って」、「実を結ぶ」ために選ばれたのです。その目的を考えるために、ここでユダヤ人がなぜ選ばれたのかを考えてみたいと思います。神が「選び」というやり方を用いたイスラエルと教会は、一連のストーリーなので、ひとつの目的を実現するために必要なスタッフを集めるための手段だと私は思っています。

イスラエルは諸国民を祝福し、神ご自身を知らせるために選ばれております。イスラエルの祖としてアブラハムが選ばれた創世記12:2-3には、「あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」つまり、アブラハムの末イスラエルを通して、神は諸民族を祝福しようとしていると書かれています。それも、誰が祝福されるかを選ぶ権利はアブラハムには無く、彼は諸国民に祝福をもたらす神の道具なのです。

もっとはっきりとイスラエルを選ばれた理由がわかるのが、エゼキエル書36章です。23節にイスラエルによって神が実現しようとしている事が書かれています。「わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。」諸国民が、神が主であることを知るのがイスラエルの選びの目的なのです。

もし神がイスラエルの人たちだけが御心に従って生きてほしかったのなら、そして聖なる名が惜しいのなら、なぜイスラエルを諸国民の中に散らしたのでしょうか。イスラエルにまとまっていて神の命令を聞けない人たちが、世界中にばらばらになって神に仕えられるでしょうか。神自身が恥をかかないのが目的なら、世界の片隅に彼らを閉じ込めておくべきでした。紀元前から紀元後の数世紀にわたって、イスラエルは世界の大国のすぐそばにあり、また現在のイスラエルは世界中の注目を集めています。神は自分の名が汚れるのはわかっていながら、世界中の人々に、聖書の神がまことの主であることを悟るようになるという計画をたてて、イスラエルの民を選んで導いてきたのです。

この目的のために、彼らは世界に散らされて、色々なところで迫害にあい、最近には600万人も殺されるという裁きを受けました。これはイスラエルだけが完成するためではなく、イスラエルという民族の存在を通して、すべての人にイスラエルの神こそまことの神なのだと悟らせると言う目的があったために受けた裁きだったのです。

先ほども申し上げたように、ここから最終段階まで計画を進めるために召されたのが私たちなのです。諸国民に神が主であること、神が聖なることを示すために私たちも選ばれています。

イスラエルへの私たちの責任

ヨハネによる福音書14:12に、「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。」と書かれています。ここでイエスは、何を想定して「大きなわざ」と言ったのでしょうか。いくつかの答えが考えられますが、私はその中の重要な一つがイスラエルの回復だと思っています。もっと大規模な奇跡を行うよりも、イスラエルが本当に悔い改めて神の前に戻るということの方が、イエス・キリストにすればはるかに重要な目的だったのです。

パウロも同じ考えの持ち主でした。彼は、「私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(ローマ9:3)と自分自身の永遠の命を賭けて祈りながら、ユダヤ人に福音が宣べ伝えられる日のために異邦人の使徒として働いていました。二人とも命を投げ出したこの「大きなわざ」のために今私たちも「任命」されているのだと思います。

実は十字架とイスラエル回復には大きな関係があります。イエスが十字架にかかった時、その罪状書きには「これはユダヤ人の王」(ルカ23:38)と書かれていました。当時も、そして現在もユダヤ人の大部分はイエスが王だとは認めていません。旧約聖書にもダビデの子がユダヤ人の王として帰ってくることが預言されていますが、この罪状書きもイエスをユダヤ人の王として帰ってくることを預言的に表しているのだと思います。

イスラエル回復は「御心」か?

皆さんの中には、イスラエル回復は神の御心だと思っておられる方が多いかと思います。しかし、かつて彼らが犯した罪や現在のイスラエルの政治状況などを考えれば、彼らはこれからも厳しいさばきを受けても当然と言うこともできます。従って、正義を重んじる神にとって、イスラエルは許せない存在でもあり、だから「執り成し」が必要なのです。執り成しは、神の意志に反したことを願うわけですから、自分自身も罰される危険が伴います。そして、自分自身の存在をかけた執り成ししか、効果がないのです。

パウロはローマ人への手紙でイスラエルについて語る時、「御心」だとは一言も言わないで、「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」(ローマ9:2)と語っています。イスラエルの回復を望む事は、自らの意思で執り成すべき事だと考えていたのです。そして、「のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(同9:3)という覚悟で、自分自身をかけて執り成しを祈っていたのです。

弟子たちがこのような状態におちいることを予測していたイエスは、素晴らしい約束を私たちに残してくださいました。「さらに大きなわざ」について語った後に、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」(ヨハネ14:13)と約束し、次の節で同様の約束を繰り返しています。イエスはなぜ、このように無謀な約束をする必要があったのでしょうか?私は父親ですが、子供たちに何か買い与えたいものがあるがそれを子供が自由意思で選んでほしいと思う時に、「何でも買ってあげる」と言うことが多いです。イエスにも、弟子たちに願ってほしい事があった。そして、その事を弟子たちが自由意思で願ってほしかったのではないでしょうか。イスラエルへの執り成しは、私たちがキリストによって選ばれたことを自分が選んだように体験してクリスチャンになったのと同様に、命じられてではなく自分の意思で願い、祈るものなのです。自分が神のもとに帰ってから、自分に従う者たちにイスラエルの回復のために働き、祈ってほしいと考えたイエスは、このように素晴らしい約束を、私たちに残したのです。

まとめ

私たちは、キリストに選ばれたという形でキリストが私たちと共におられるという特典を与えられて、召されています。その目的の一つは、イスラエルの回復と言う形で神の栄光が現れるためなのです。「わたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」と約束するのは、父が子によって栄光を受けるようになるためだと書かれています。そして、神は自らの栄光を表すためにイスラエルを選び、彼らが回復することによってその栄光を表そうとしておられるのです。ですから、キリストに召された私たちクリスチャンは、この神の計画の完成のために心を尽くし、力を尽くして進んでいくべきなのです。

私の話を聞かれて、イスラエルをあまりにも強調しすぎだと感じられたかもしれません。日本で行われている一見イスラエルとは何のかかわりもなさそうなクリスチャンの働きも、キリストの体の働きであり、イスラエルとかかわりを持っています。それは、私たちの根(ローマ11)がユダヤ人だからです。

中国への宣教で有名なハドソン・テーラーは、毎年の初めにユダヤ人宣教団体に「To the Jews first」(ユダヤ人をはじめ:ローマ1:16)と書いた小切手を送っていました。すべてのクリスチャンの働きはキリストの王国の完成のためであり、この王国はイスラエルの回復なしに実現することはありません。ですから、どんな働きをしているクリスチャンでも「はじめに」イスラエルを愛し、祈ることが求められています。

石井田 晶二