ルツ記に見る異邦人クリスチャンの役割

メシアニック運動の出現で、新たな角度から解釈されるようになった聖書の物語があります。たとえば、ヨセフ物語、エステル記、そして今日、取り上げるルツ記などです。これらは過去の記録ではありますが、同時に将来に起こることの預言ともなっています。
たとえば、イスラエル民族がエジプトから帰ったことが、イエスがエジプトから帰った時に成就したと、マタイ2:15は書いています。バビロン捕囚からの帰還預言は、現代におけるディアスポラからの帰還預言と二重写しになっています。このように、主は同じパターンのことを何度も繰り返して行われるので、以前に起こった事件を分析すると、将来に起こる事が見えて来るのです。
ルツ記の物語は、小説のように書けばとても長いと思いますが、聖書の中ではたった4章です。つまり、多くの細部が省略されています。聖霊は、将来にそれを読む人間にとって有益な部分を選んで、その部分だけを記録させました。聖書は過去の記録、現在のための教訓、未来への預言なのです。

ルツ記にちりばめられた象徴

ルツ記には多くの象徴がちりばめられています。まず、エリメレクとナオミの一家4人は、飢饉があってイスラエルを離れ、異邦人の地に行きました。
飢饉は霊的な呪いの象徴です。イスラエルが不従順になり、神が飢饉を与え、民が約束の地を追われるのでした。しかし、民が罪を自覚して悔い改めると、彼らは約束の地への帰還を許されます。ナオミが帰還した理由は、イスラエルを再び主が顧みておられた(ルツ1:6)からだと、聖書は記しています。これはイスラエルを通じた神のご計画の基本パターンです。

しかし、ここでルツは一家全員で帰還するわけではありません、4人で出て行きましたが、一人で帰って来ました。これは、レムナント(残りの者)の帰還です。(イザヤ6:13、10:20)
また、彼女は子供を失いましたが、この物語の最後で、再び子供を与えられます。それは、イザヤ49:21、54:1などに繰り返された主題なのです。ラケルが子供を失って泣く(エレミヤ31:15)ことが、イスラエルの贖いの前兆となるという主題もまた、マタイ2:18に引用されたとおりに、旧新約をつなぐ重要な鍵です。そしてベツレヘムこそ、ラケルの墓所でした。
この物語の季節が、大麦の取り入れの季節であるということも、重要な象徴です。取り入れの季節は、旧新約聖書で何度も繰り返されたように終末を意味しています。

現代のイスラエルはナオミと同じ 

イスラエルが故郷に帰り、終末が近づいている時代、それは今の時代です。まさに、ルツ記と同じような状況が、目の前に展開しています。
ナオミのように長い放浪で疲れ果てたユダヤ人たちは、全てを失って約束の地に帰って来ました。すでに約束の地を主が顧みられていると聞きつけたからです。彼らは子供を失い、家族を失い、やっとのことで約束の地にたどり着きました。しかし、その土地は彼らにとってまだ安住の地ではないのです。近所の人々はうわさしました。「これはナオミですか」(1:15)と。
今、ベツレヘムにユダヤ人はほとんどいません。そこはパレスチナ人の町になっているのです。町の人々が落ちぶれたナオミを軽蔑したように、ユダヤ人たちもまた、周囲の国々から憎まれています。彼らは自分たちの国に帰って来たのに、寄留者として生活しなければなりません。イスラエルはまだ周囲の国々から生存権を認められておらず、いつかは追い出されるべき存在だと見られているのです。

ルツの役目

ここで重要な役割を果たすのがルツです。彼女は呪われた民であるモアブの女性でした。彼女がどういう理由で全く希望を失ったナオミと行動を共にしたのか、聖書はなにも述べていません。オルパは彼女と同じ境遇でしたが、ナオミの勧めを受け入れてモアブの神のもとに帰って行きました。でも、なぜかルツはナオミに従う決心をしたのです。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神…」。
ここで明確にわかることは、ナオミの一家がモアブ人とは違う神を信じていたということです。彼らは異邦の地にあってもイスラエルの神を忘れませんでした。1:15に、オルパが「自分の神々のところへ帰って行った」とあることからも、エリメレクとナオミの一家とその嫁は、モアブの地でもイスラエルの神に従っていたことがわかります。
そこで、全てを失ったナオミは、神がイスラエルを顧みておられると聞いえてすぐに帰還する気になりました。そして、なぜかナオミの一家に嫁いだルツは、その神に頼る決意をしたのです。
ユダヤ人はナオミと同じように、異邦の地においてもイスラエルの神を忘れませんでした。イスラエル国家のハティクバには、その思いが切々と歌われています。ナオミが約束の地を離れたのは10年余りの間だったようですが、ユダヤ人たちは二千年近くも、イスラエルの神を思い続けました。

選択肢は2つしかない 

さて、異邦の地にあってイスラエルの神を信じている私たちクリスチャンは、イスラエルが帰還する時代になると、イスラエルと運命を共にするかどうかを問われる時が来ます。彼女たちに与えられた選択肢はたった2つだった点に注意して下さい。イスラエルの民とその神と共に立つか、あるいはどちらも捨てて自分の民、自分の神に帰るかなのです。イスラエルの神は信じるが、イスラエルの民と共に立つのは勘弁して欲しいという選択肢はありえません。

現在、多くのクリスチャンは「イスラエルの神」を信じてはいますが、その神はもう自分たちの神であって、イスラエルとは無関係だと思っています。しかし、終わりの時になってイスラエルが国に帰ると、オルパとルツが選択を迫られたように、イスラエルの民の「友」になるかどうかを問われる時が来ます。なみに、ルツとは「友」という意味なのです。
友になるとはどういうことでしょうか。それはイスラエルの民になるという意味ではありません。ルツはあくまで異邦人の女性としてイスラエルに仕えました。でも、彼女の心はイスラエルと一つでした。
私の祖父は巨人の大ファンで、いつも巨人を応援していました。私は阪神のファンなので、巨人阪神戦を祖父とテレビで観戦する時には、阪神が勝っても、あまりうれしそうな顔をしないように苦労し、巨人が勝った時は喜んだふりをしていましたが…。そして祖父は、巨人が優勝して、みんなに「巨人が優勝して良かったですね」と言われると、「おかげさまで」と言って、巨人軍に成り代わって謝辞を述べていました。これが「友になる」ということです。

2種類の召し

しかし、祖父は自ら野球の選手になって巨人軍に入ったわけではありません。大半の巨人ファンもそうだと思います。このように、巨人ファンになるべき人と、実際に巨人に入団する人とは違います。
イスラエルに関するクリスチャンの召しも、2種類に分かれると、多くの人々が考えています。イスラエルの「ファン」になるという召しと、イスラエルの民に「入団」するという召しです。
2010年に来日されたアイラ・ブラワー師は、この2種類の召しを、ルツ1、ルツ2(Ruth 1, Ruth 2)と呼んでおられます。「ルツ1」の召しは、イスラエルの友、あるいは味方になることで、全てのクリスチャンの義務です。
しかし、クリスチャンの中には、ユダヤ人信徒と結婚するなどしてユダヤ人と同じ生活をするクリスチャンもおられます。たとえば、ウディというメシアニック・ジューの男性は、異邦人クリスチャンであるのにユダヤ人のように生活する女性と結婚して、救いに導かれました。そういう特別な召しを与えられた方もおられますが、それは「ルツ2」と呼ぶべきであり、全ての人の召しではないと、ブラワー師は言われます。これは妥当な見解だと思います。

ルツ1とルツ2は互いに関係していて一体のものです。ルツはイスラエル民族に嫁いだので、ルツ2に近い召しを持っていましたが、彼女の姿勢から私たちは多くのことが学べます。

ルツの行動

ルツがナオミと行動を共にすると決めたのは、ナオミが最悪の状態で、何も希望が無い時でした。ナオミはもう子孫を与えられる希望も無く、死ぬためにベツレヘムに帰って行ったのです。ナオミは神から罰を受けた(1:13)のですが、ルツはナオミと共に主の罰を受け止める覚悟をしました。
そしてルツは自ら「落ち穂拾い」を始めます。当時イスラエルでは、レビ記19:9などにあるように、落ち穂は貧しい人々、旅人のために残しておく定めだったのです。しかし、それを拾うことは、大変な不名誉でした。ナオミはそんなことはしたくなかったのですが、ルツは自らその恥を負い、物乞いを始めたのでした。
今のイスラエルは、まさに「物乞い」のような状態になっていて、各国からの援助で生活しているようなありさまです。それはイザヤ60:11のように、諸国から貢物が集まって来るという預言の成就であるとも言えますが、実際的には諸国で募金集めに奔走しているというのが適切でしょう。今、エルサレムに行くと、多くの乞食や路上生活者がいます。「アドニー!ショメール!ツェダカー!」と、まるで賛美歌によく出て来る台詞を彼らが叫んでいるのを聞くと、多少がっかりしますが、それがイスラエルの実情なのです。約束の地には帰ったが、貧しいままだったナオミの姿そのものです。
ここ数十年の新しい動きは、その貧しい人々を支えるため、募金集めに多くのクリスチャンが関わっていることです。クリスチャン・シオニストと呼ばれるこの運動は、近年になって突然出現して来ました。イスラエルが困難な時に、イスラエルに代わってあちこちを回り、募金を集める働きは、何とルツに似ていることでしょうか。シオンとの架け橋は、メシアニック・ジュー支援団体なので、いわゆる「クリスチャン・シオニスト」とは分類上は違うのですが、やっていることは基本的には同じです。ルツはあちこちの畑を回り、恥をしのんで落ち穂を集め、それをせっせとナオミのもとに運びました。

ところで、ルツは華奢で色白の美人だったと思っている方が多いようですが、私はそうは思いません。ルツが1日で持ち帰った大麦の量が1エパだったと書かれていますが、これは約20キロです。私は5キロの米袋をスーパーから持ち帰るのでさえ重いと感じるのですが、その4倍の大麦を彼女は運んだようです。ルツは力強い女性でした。

ボアズとルツの出会い

さて、ここで物語のヒーローであるボアズが登場します。ボアズは「非常に裕福」だったと書かれており、「贖い主」という役割から見ても、またあるいは名前の意味「力によって」からもメシアの型であると、全ての注解者が考えています。
ボアズとルツの出会いを描く2章の物語は、ルツ記の読みどころです。ボアズは、ルツの容姿よりも、献身的にナオミに尽くす生き方に感動しました。ルツは「少しも休まなかった」と書かれているように、ボアズに雇われている人々よりも熱心に働き、落ち穂を拾ったのです。イスラエルのために熱心に活動している「現代のルツ」の皆さんも、とても熱心に休まず活動しておられますが、それによってキリストから大きな愛と恵みを受けておられると思います。

しかし、これを単なるラブストーリーとして読むと、物語の重要な筋を見落としてしまいます。ボアズがルツに魅力を感じたのは、ボアズとナオミの関係があるからなのです。ボアズとナオミは親戚同士であり、すでに昔からよく知っている仲でした。ですから、ここで、ルツはナオミの「代役」をしているという点に注意が必要です。ボアズは落ちぶれて帰って来たナオミを何とか慰めたいと思っていたのではないでしょうか。だから、ナオミに仕えているルツのけなげな姿を見て感動しました。
ルツも、ナオミのために行動しており、いつもナオミの指示に従っています。ルツはいつも全てをナオミに報告していました。ナオミとルツは一体でした。

イスラエルのために活動する現代のルツである私たちも、この点を忘れてはいけないと思います。主がイスラエルを愛しておられるから、イスラエルのために働く私たちもまた祝福を受けるのです。愛されている私たちが、愛されていないイスラエルをあわれんであげる、という話ではないのです。
ルツは異邦人でしたが、そこをよく心得ていました。ルツはイスラエルの風習も法律も知らず、人間関係も知りませんでしたが、ナオミを助け、彼女の指示に従えば道は開けると知っていました。ナオミはもう年老いて、子供を産むことはできませんでしたが、イスラエルの法は知っていたので、ボアズとルツの関係が彼女とルツを共に救う可能性を秘めていることに気付いたのでした。

贖いとレビレート婚

さて、ここで物語の2つの鍵となる、未亡人の兄弟との結婚(レビレート婚)と、近親者による贖い(ゴエール)とについて説明しなければなりません。
まず、レビレート婚とは、結婚して子供が無いまま夫が死亡した場合、その夫の兄弟は故人の妻と結婚し、子供を作ってその子に死んだ者の名を継がせなければならない、という規定です。これは、世界的に行なわれていた風習で、日本でも「弟直し」という似た風習がありました。聖書では創世記38章8節にその例があり、申命記25章5,6節にその規定があり、マタイ22:23~33でもサドカイ人がこの制度に言及しています。しかし、いずれの風習もその責任範囲は兄弟、申命記では特に同居する兄弟に限定されており、最も近い親戚の男性がそうするという規定はありません。そこで、ナオミはルツについてレビレート婚を要求する権利がなかったと思われます。

次は、土地の贖いです。これは、レビ25:23-27にある規定で、誰かが没落して土地を売った場合、近親者がその売った土地を買い戻す義務があるというものです。そうやって土地を一族の内に止めておく必要があったからです。買戻しにはいくつかの条件があり、まず買戻す人(ゴエール)は(1)近親者であって、(2)財力があり、(3)買い戻す意思が必要でした。買い戻した土地は、基本的には売った人間のもとに帰りました。もし誰も買戻しをしなかった場合でも、ヨベルの年になれば、土地は自動的に元の持ち主に戻ったのです。これが、買戻し、贖いの原理でした。新約聖書における贖いも、基本的にはこの考えにもとづいています。罪の負債で罪の下に売られてしまった人間を、神はメシアの血という代価を払って買い戻されたのでした。

さて、レビレート婚と土地の贖いは本来、連動していませんでした。しかし、ここでナオミは何らかの形で結婚と土地の贖いを連動させる仕掛けを考えたのではないかと思われます。聖書は、どうやってナオミがそれを連動させたのか、明確には語っていません。その鍵をにぎるのは4章の記述なのですが、そこには2つのテキスト上の問題があって、意味がよくわからないのです。

4章のテキスト上の問題点

ボアズと贖いの義務のある親戚の会話はこうです。

4:3 ボアズは親戚の人に言った、「モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。
4:4 それでわたしはそのことをあなたに知らせて、ここにすわっている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください。しかし、あなたがそれをあがなわないならば、わたしにそう言って知らせてください。それをあがなう人は、あなたのほかにはなく、わたしはあなたの次ですから」。彼は言った、「わたしがあがないましょう」。
4:5 そこでボアズは言った、「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買って、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません」。
4:6 その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」。

この訳だと、ナオミが現に土地を持っていて、それをボアズが買うような話になっていますが、前述の「土地の贖い」という原理から考えれば、ナオミが没落して売ってしまった土地を親戚が贖うという話が自然です。4:3は文法的に微妙な表現で、「ナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売りましたが、モアブの地から帰って来ました。」とも訳せるのです。ヘブライ語の時制では完了形と未完了形しかなく、完了形は過去完了とも未来完了とも訳せます。しかし、4:9は明らかにボアズが「ナオミの手から土地を買い取った」となっています。イブン・エズラなど高名なユダヤ人のラビは、これを未来完了と訳し、大半のキリスト教の翻訳者もそれを踏襲しました。(ヤング訳やNKJVは例外)

次の問題は、4:5です。ここでは、聖書本文に書かれた文字と、その伝統的な読み方が異なっています。聖書本文の中には、文法的に筋が通らない個所や、スペルが違う個所があります。現代人の常識から見ると、それは「誤植」なのですが、聖書の写本者たちはずっと本文の「誤植」の文字(クティブ)を保存し、欄外にその「正しい」読み方(ケレー)を記載するというやり方を続けて来ました。それは、一見、誤りとも見える聖書の個所には、何か深い意味が隠されていると考えたからです。
さて、ここの聖書本文はボアズが「私がルツを妻とし・・・」となっていますが、欄外記載の伝統的な読み方では、「あなたがルツを妻とし・・・」となっています。ほとんどの聖書翻訳は、伝統的な読みを採用しています。しかし、本文の文字通りの方が、意味が通ると指摘する人々(John Lawrenzら)もいます。

ここで「近い親戚」は、ボアズから指摘を受けるまで、ルツとの結婚と土地の贖いが連動しているとは全く思っていませんでした。それは、結婚と土地の贖いは別の話だったからです。しかし、ボアズから土地を買い戻すならルツと結婚せよと言われたとたんに、不思議な事にその近い親戚は直ちに引きさがりました。ボアズの発言は、あきらかに彼の「想定外」だったのです。
そこで、一部の注解者たちは、近い親戚が畑を買おうとした時、ボアズが予想に反してルツと結婚する意志を突然表明したので、その人はあきらめたと考えます。つまり、通常の贖いだと、没落した親戚の財産を買い戻してその人の持ちものにするので、贖った人には損失です。しかし、ナオミには子供が無いので、最終的に土地は自分のものに戻ってきます。しかし、ルツとボアズが結婚して子供を作るなら、買い戻した土地は最終的にボアズの家のものになるので、全く話は違ってきます。近い親戚は、それを聞いて贖いを断念したと、前述の注解者は推理するのです。

ナオミの作戦は?

では、ナオミとボアズは、どうして結婚と土地の贖いを結びつけたのでしょうか。それには、いくつかの推理が成り立ちます。とりあえず、3:9でルツが結婚の申込みをしたことは明らかです。「衣のすそで被う」=権威の庇護の下に入るという意味で(エゼキエル16:8)結婚を意味しています。また、3:11からルツがそれ以外に何か頼み事したとも考えられるので、以下のような推理が成り立つでしょう。

1)ナオミには10年以上も放置していた土地があり、それを売る意思をボアズに伝えていた。そして、ルツと土地は「セット販売」になっていた。(すべて通常の訳文どおりで解釈可能。3章では明記されていないが、土地を売る意思表示があったと考える。)

2)ナオミの土地はすでに人手に渡っていたので、その土地を買い戻してくれた人と結婚するという意思表示をルツがした。(3節のみ別解釈)

3)ルツの結婚の申込みを受けるに当たり、すでに人手に渡っていたナオミの土地を買い戻してあげるのが近親者の義務だとボアズは考えたが、そのためには先に近親者の意思を確認する必要があった。(3節、5節共に別解釈)

いずれにしても、この贖いの取引には、今ひとつ不明な点があります。そこで、シュラム師にこの点の解釈について聞いたところ、結局、誰もその真相はわからず、ラビたちはテキスト上の曖昧さにもとづいて様々な憶測をしているとのことでした。そして、ラビたちの中には「この取引について、神はあまり明確にその仕組みを明らかにしたくないのだろう」と考えた人もいるようです。
シュラム師によれば「そういう曖昧な所には、深遠な真理があることが多い」とのことなので、皆さんも祈りつつ、この御言葉の意味を考えてみてください。この贖いが、ユダヤ人の最終的な霊的回復、二千年間、人手に渡っていたイスラエルという土地の買い戻し、そして異邦人クリスチャンの役割に関係しているとすれば、これは大変な秘密が隠されているので、神は適切な日までこの秘密を封印しておかれるおつもりなのかも知れません。」

夜の密会

さて、以上のどの経緯だったにせよ、ナオミはいろいろ考えた末に、ルツに細かく指示を与え、ルツはその通りに行動しました。
まずナオミは、身を清めて晴れ着を着て打ち場に下って行くようにルツに命じます。当時、穀物の脱穀は、風の強い場所で穀物を打ち、空に投げ上げるという方法で行なわれていました。すると、軽い籾は遠いところまで飛ばされ、重い麦粒がすぐ近くに落ちるので、簡単に分けられるわけです。
しかし、打ち場は集落から離れた野外だったので、夜にそのまま放置して家に帰るわけにはいきませんでした。そんなことをすれば、夜に盗賊がせっかくの穀物を奪って行ってしまいます。そこで、主人は打ち場で寝て番をしました。しかし、その時は収穫の祝いの時でもあり、淫らな行為が行なわれる時でもあったようです。(ホセア3:1など)

ですから、ナオミがルツに命じた行動は大変危険なものでした。途中でもし人に見つかれば、ルツは売春婦の汚名を着ることになります。モアブの女は売春と共にイスラエルに偶像礼拝を教えたと記されており(民数記25:1)、申命記23:3では特に呪いを受けています。(だから後で、ボアズは朝早く起きて帰るようにルツに指示した。)
このような危険な賭けに出たのは、ルツのレビレート婚と土地の贖いを「法的権利」としてナオミが要求することができなかったからでしょう。もしそれができたなら、ナオミ自ら町の門の所で訴えを起こせばよかったはずですが、それはできませんでした。だから、ボアズとルツの恋愛愛情がとても重要だったのです。
そこでボアズはルツの愛と勇気に感動し、ナオミとルツの期待通りに行動してくれました。「娘よ、この事がどうなるかわかるまでお待ちなさい。あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう」(3:18)というナオミの言葉には、自身が満ち溢れています。
この密会ではルツの女性としての魅力が大変に重要な意味を持っていましたが、ルツは決して自分のためだけに行動せず、ボアズもまた、ルツと同時にナオミを意識して6オメルの大麦をナオミにプレゼントしています。
神はイスラエルを「若い時の花嫁」として、愛しておられますが、それと同時に神は異邦人をも愛しておられます。しかし、異邦人が自分の魅力だけを誇って行動しても、その愛は実を結びません。ナオミが熟知しているイスラエルの法や制度に従わないと、ボアズ(キリスト)との間に愛が実を結び、メシアをもたらすことができないのです。

近い近親者は誰か

さて、ここで、ボアズよりもナオミに近い親戚が登場します。これは、ヘブライ語で「プロニ・アルモニ」、つまり日本語では「何某」という言葉と同じように、意図的に名前が伏せられている表現です。これは聖書中で珍しい語法で、Ⅰサムエル21:2などに登場します。この人物は何を象徴するか、という問題がよく議論されています。これは、ローマ書7章冒頭の例話と似たモチーフであり、罪あるいはユダヤ教の律法主義だと見ることができます。
あるいは、もっと穿った見方をすると、伝統的なキリスト教かも知れません。彼らは、ユダヤ人迫害を通じてキリストに対する反感を植え付けてしまったので、ユダヤ人はその色眼鏡を外してキリストを見る事が大変難しくなっているのです。こうした障害を乗り越える力は何でしょうか。それは、キリスト(ボアズ)の愛なのです。

死んだ者の名を起こす

さて、4章の取引で重要な主題は「死んだ者の名を起こす」ことです。ユダヤ人の救いは、ローマ11:15において死人の復活にたとえられていますし、またエゼキエル37章の「枯れ骨」の預言は、同じような主題でもっと劇的にイスラエルの回復が預言されていて、あまりにも有名です。
イスラエルが帰還する時には、子供を亡くして絶望しつつ帰って来るが、不思議なことに異邦人が子供を連れて来ると、イザヤ(49:22)は預言しています。異邦人クリスチャンは、まるで「代理母」のような役割をしてユダヤ人の子供を産むことになるのです。多くのクリスチャンたちの献身的な伝道でユダヤ人がイェシュアを信じているのは、この預言の成就ではないでしょうか。伝道は、霊の子供を産む(ピレモン1:10)ことなのですから、異邦人クリスチャンはまさにルツと同様にメシアによるユダヤ人の子供を「代理出産」して、それにより死んだ者の名を起こしているのです。

ナオミに子供が生まれた

ボアズと結婚して子供を産んだルツは異邦人でしたが、子供はナオミに「新しい命」(4:15)を与えました。そして、人々は「ナオミに男の子が生まれた」(4:16)と言ったのです。レビレート婚の場合は、生まれた子供に死んだ男性の名前をつけなければなりません(申命記25章5,6節)でしたが、ここではマロンではなく「オベデ」という名前になっています。また、レビレート婚の場合はオベデはマロンの子になるはずなのですが、ルツ記の巻末の系図ではオベデはボアズの子となっています。これは、ボアズとルツの結婚が、レビレート婚と通常の結婚の中間的なものだったことを示しているように思えます。
さて、今日の学びの最後に申し上げたいことは、オベデをナオミが育てたという点です。オベデは現代のメシアニック運動のようなものだと思います。メシアニック・ジューの多くは、クリスチャンたちの働きによって救われたのですが、ユダヤ人信徒はナオミ、つまりユダヤ人の子として育てられなければなりません。そうでないと、モアブの子になってしまうからです。

また、私たちもキリストから特別の愛を受け、異邦人の中から贖われた者ですが、それはナオミ、すなわちイスラエルに与えられた嗣業、土地、契約のゆえに、ナオミの「代わりに」愛されているという点に注意が必要です。私達は6オメルの大麦のプレゼントをキリストからいただいているのに、それを自分がもらったと勘違いしていないでしょうか。そうではありません。私達はそれをナオミのもとに届ける必要があるのです。また、私たちを通して、イスラエルの土地、祝福、子孫が回復される必要があるのです。
どうか、私たちがルツのように行動し、ナオミに新しい命を与え、ナオミの嗣業を回復できますように!


石井田 直二(シオンとの架け橋)