ユダヤ人迫害の霊的背景

ユダヤ人迫害は、非常に重要なテーマです。クリスチャンたちがユダヤ人を長年迫害してきて、ユダヤ人達がクリスチャンを敵視していることは、皆さんには常識だと思います。しかし、一般の教会に行ってお話をすると、意外に知らない人がいます。中には「イスラエルの人たちはみんなイエス様を信じてるいのではなかったのですか?」と言われる方もおられます。
ユダヤ人迫害は、日本の部落問題と同じように、社会に被差別階級の人がいて、その人たちに対して、非常に理不尽なことをやって来たという形で理解している方が多いと思うのです。しかし、ユダヤ人を迫害する背景に神学が関係していることを忘れてはなりません。そこを理解しないと、ユダヤ人がどうしてそこまでクリスチャンを嫌うのか、なかなか理解してもらえないのです。

ユダヤ人に福音を伝える

ユダヤ人と話していて、自分がクリスチャンだと言うと、急に空気が凍る体験をされた方は多いと思います。「イエス・キリストを信じなさい」と言うと、彼らは強く反発します。だからユダヤ人に今は福音を述べ伝える時ではない、ユダヤ人迫害をしたため、クリスチャンはユダヤ人に福音を伝える「権利」を失ったという論調を、時々耳にします。
その背景にあるのは、ユダヤ人と和解のための対話です。ユダヤ人との和解や対話はいいことですが、危険性もあります。対話成立の条件は「イエス・キリストの話は持ち出さない」になるからです。そして、クリスチャンは罪を犯したので、ユダヤ人たちに福音を述べ伝える権利を失ったという理論も出て来る。終末論にもとづき、今の段階ではユダヤ人と友好関係を築くだけで良いという理論も出て来ます。カトリックは「ノストラ・アエターテという宣言で、事実上、ユダヤ人がキリストを信じなくても救われるという見解を打ち出しました。
これは非常に危険な話です。福音を述べ伝えるのは「権利」ではなく「義務」なので、ユダヤ人迫害をしたから、私たちクリスチャンが福音を伝える義務を免除されるということはありえません。福音を伝えることは、相手がユダヤ人であろうが異邦人であろうが、私たちが与えることができる最上の贈り物です。福音を宣教しないことこそ、最もひどい反ユダヤ主義だと語るメシアニック・ジューの人もおられます。
もちろん、ユダヤ人に反感をもたせるようなプレゼンテーションはすべきではありません。しかし、それは言い方が悪いのであって、ユダヤ人に福音を伝えることが間違っているわけではないのです。
クリスチャンたちがユダヤ人を迫害した罪は悔い改めないといけないのですが、その償いをする唯一の方法は、どんなに苦労してもユダヤ人に福音を伝えること、あるいはその働きに協力することです。これ以外に罪を償う方法はありません。これが、私の最初に申し上げたいことです。

ユダヤ人社会とユダヤ人信者の分離

ユダヤ人の迫害の歴史につきましては、すでに多くの人が書いておられますので、大まかなことを申し上げるにとどめたいと思います。最初にイエス・キリストが福音を説かれ、それから弟子たちが初代教会を作りました。初代教会の最初の指導者たちは全員ユダヤ人だったのです。これも皆さんよくご存知だと思います。
それから使徒行伝の10章になりまして、初めて異邦人の信徒たちが教会に入って来ます。パウロらの働きがあり、異邦人の人たちが福音をどんどん受け入れるという事態が進んできましたが、新約聖書の書かれた時代には、まだまだ異邦人よりもユダヤ人のほうが数が多かったのです。しかし、だんだんと数が逆転していくのです。
使徒行伝に入ると、ユダヤ人は福音を拒否していて、異邦人だけが喜んで福音を受け入れたように認識をしておられる方がいらっしゃるかと思うのですが、そうではありません。
ヨセフ・シュラム先生の得意のメッセージですが、使徒行伝の最初から、何人のユダヤ人がイエス・キリストを信じて、何人の異邦人がイエス・キリストを信じたのかを順番に数えて見て下さい。異邦人の中でイエスキリストを信じた人の数が非常に少ないことが、すぐにお分かりいただけるかと思います。ユダヤ人は何万人という数のユダヤ人がイエス・キリストを信じているのですが、異邦人はわずかでした。最初は圧倒的にユダヤ人が中心だったのですね。それから以後、異邦人の数が増えてまいります。
そしてユダヤ人と異邦人のバランスが逆転する決定的な機会となったのが、起源70年の神殿崩壊です。神殿の崩壊の時にユダヤ人信者は、かなりの数が、エルサレムを追われました。「荒らす憎むべきものが聖なる場所に立つのを見たら、山に逃げよ」ということをイエスが教えておられるので、その教えを聞いて真っ先にエルサレムから逃げ出したようです。そして、イエス・キリストを信じる人たちは、裏切り者だという烙印を貼られまして、ユダヤ人社会との関係が非常に悪くなるのです。
その後、バルコフバの乱がもう一度ありまして、その時に多くのユダヤ人たちは、前の苦い体験があるのですから今度は一緒に戦おう言ったのですが、ユダヤ人信者達は一緒に戦うことはできなかったですね。それはなぜかというと、バルコフバの乱のときにラビ・アキバが、首謀者のバルコフバがメシアだと言いました。そこでイエス・キリスト以外の人がメシアだという人と共に、一緒に戦うことはできないと言い、信者たちは去りました。そしてユダヤ人社会から隔絶されるようになっていったのです。ユダヤ人社会から追い出された信者(初代メシアニック)は、結局異邦人クリスチャンのなかに行って住まなければならなかったと考えられています。

異邦人の中のユダヤ人信者

異邦人教会の中にユダヤ人が入ってきますと、様々な問題が起きてくるのです。これは神学的な問題ではなく、極めて実際的な問題です。私たちがイスラエルの方からメシアニック・ジューを招きますと、最初に何を考えないといけないかと申しますと、コーシャー(適正食品)をどうするかを考えるのです。
レストランに行きまして食事を一緒にしましょうと言うと、問題が発生します。日本料理は、安物は別として上等のものは必ず海老がついてくるのです。海老が最高の食材だと考えられているからでしょう。ところが海老は食べてはいけない食品です。それから、豚肉も、魚もアナゴとかうなぎとかはだめです。この規定を紙に書いてレストランに持って行きますと、シェフが「こんなややこしいことはできません」と言います。だしまで考え始めたら、もうどうしょうもない。3日間や一週間くらいだったらいいのですが、これが半年になり一年になったら、大変です。
食事をするのも、「私は豚肉を食いたい」と、「いや、あの人たちが居るから教会の食事では豚肉出せないのです」と、「なんであんなやつらがいるんだ」という話になってきます。だからユダヤ人信者が異邦人教会に入って行くと、様々な軋轢を生むのです。その問題を解決するために、使徒15章のエルサレム会議が行われました。
それまで「みんな平等」と考えていたのに、特別な「召し」を持っているという人が集団の中に入ってくると、様々な軋轢を生んでくるのです。現実的にそういう状況に遭っていない人には理解が難しいかも知れませんが、実際に違う召しを持っているという人が入ってこられたら、よっぽどよくそのことの意味を分かっていないと、やっぱり問題が起きてきます。その根底にあるのは「妬み」なのです。

ユダヤ人に対する妬み

そして教会の中では、ユダヤ人に対する妬みと憎しみが強まり、ユダヤ人を非難する風潮を生んでゆくわけなのですね。紀元100年前後には、殉教者ユスティノス、テルトゥリアヌスなど、本当に初代の教父たちが、非常に激烈な反ユダヤ人的教説、つまりユダヤ人は捨てられたのだと、聖書はユダヤ人のものではなくて自分たちのものなのだという教えが語られ、それがユダヤ人に対する激烈な非難になって行きます。
それを加速させたのが政治的要因です。ローマ帝国では、もともとユダヤ教は公認宗教で、ローマ帝国の保護を受けることができたのです。だからローマのクリスチャンたちは、最初は自分たちがユダヤ教の一部だと主張していたのですが、ユダヤ教が迫害を受けるようになりますと、自分たちはユダヤ教と組んでないということを、だんだん強調するようになってきます。そういった背景等がありまして、ユダヤ教とキリスト教とはどんどん離れていくのです。
そして170年ごろには、アイレナイオスという人は、ユダヤ人は神の恵みを受ける相続権を失ったという理論を書いておりまして、古い律法はすでに捨てられ、その捨てられることは、旧約聖書にあらかじめ記されている。旧約聖書の目的はキリストの新しい律法の準備をするためである」と書いています。
ニカヤ公会議の時代になると、「ユダヤ人たちは神に呪われた邪悪な民族である」ということが正式な教義として取り上げられるようになってまいります。
そしてユダヤ人が完全にキリスト教会から追い出されます。そして十字軍では、クリスチャンたちがユダヤ人を殺害するという事件が起こってまいります。十字軍はもともとイスラム教との戦いということで、ローマのあたりからスタートしていったのですが、実際にはその途中で、イスラム教徒を殺すよりも多くのユダヤ教徒を殺して来ました。そういったことがありまして、ユダヤ人とキリスト教徒の関係が、ますます悪化して来ます。
そして、中世のユダヤ人迫害から近代のホロコーストに至る筆舌に尽くし難い惨劇が起こって来るわけです。

ユダヤ人が迫害されるのは神の御心か

さて、クリスチャンたちはユダヤ人を迫害する時に、ユダヤ人を迫害することは神の御心なのだと考えていました。その根拠となるのは、旧約聖書と新約聖書の中の、ユダヤ人に対する激しい神の怒りです。つまり、ユダヤ人のほうに迫害される理由があるのだから、神に代わってユダヤ人を罰するのは神の業を行っているのだというわけです。確かに、ユダヤ人に対する新約聖書の言葉は非常に激しいので、ちょっと読みますと、ユダヤ人というのは神から呪われているような印象を受けてしまうのです。
典型的なところを読みますと、ヨハネによる福音書の8章44節です。イエスは「自分を信じたユダヤ人」に向って「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない」と言っておられます。こういう箇所から、ユダヤ人たちはすべて偽りの父、サタンから出てきたものなのだから、殺してもかまわないのだ、という理論が生まれて来ます。
聖書を読むときに十分に気をつけないといけないことは、ユダヤ人はユダヤ人の事を非常に鋭く批判することです。旧約聖書の預言者たちもそうでした。現在でもイスラエルを最も激しく批判している人々はユダヤ人なのです。国連人権委員会が、ガザでの戦争を調査する委員会を作ったのですが、その委員長はゴールドストーンという人でユダヤ人です。彼はほとんど一方的に、あること無いこと、疑わしい証言を含む、あらゆる論拠をあげてイスラエル国防軍を非難する一方で、ガザから明らかに民間人を標的にしてロケットを撃ち続け、民間人を盾にして戦争を行なったハマスの明らか戦争犯罪は、ほとんど非難しません。つまり、ほとんど悪意とも言えるほどの言葉で、ひどくユダヤ人を批判するのは、いつもユダヤ人なのです。
しかし、これはあくまで「家族内」の問題であって、外部の者がそれらの発言を利用するのは良くありません。親が子供を叱って「お前は馬鹿だ」と言っているのを聞いて、隣の人が「お宅の子供は本当に馬鹿ですね」と言ったとすれば、どんな親でも怒ります。それと同じことなのです。
日本人で「今の政府は素晴らしい」と言われる人は滅多におられないと思います。しかし、日本の政府を厳しく批判していることイコール日本を否定しているわけじゃない。良くなってもらわないと困るから言っているのです。日本人の政府批判を聞いて外国が「日本にはまともな政府も人間も無いから、戦争で日本を滅ぼし、占領したほうがいいだろう」と言ったら、鋭く日本を批判している日本人だって怒るでしょう。
それと同様、旧約聖書の中に何度も繰り返し出てくるユダヤ人の頑迷と、神のユダヤ人に対する怒りは、彼らを憎んで殺戮すべきだという話ではないのです。旧約聖書の文脈に注意して読んでいただきたいのです。

隣人の義務

では、神がイスラエルを罰せられる時に、クリスチャンはどのような態度を取ればいいのでしょうか。イスラエルの隣人の義務について、オバデヤ書1章13~14節の、エドムの民に対する言葉を読んでみましょう。

「あなたはわが民の災の日に、その門にはいってはならず、その災の日にその苦しみをながめてはならなかった。またその災の日に、その財宝に手をかけてはならなかった。あなたは分れ道に立って、そののがれる者を切ってはならなかった。あなたは悩みの日にその残った者を敵にわたしてはならなかった。」

つまり神がイスラエルを懲らしめているときに、その懲らしめているものに加担してはいけないのです。イザヤ書にも、イスラエルに対する処罰に使われたアッスリヤについての預言があります。

「ああ、アッスリヤはわが怒りのつえ、わが憤りのむちだ。わたしは彼をつかわして不信の国を攻め、彼に命じてわが怒りの民を攻め、かすめ奪わせ、彼らをちまたの泥のように踏みにじらせる。しかし彼はそのようには思わず、その心もそのようには考えず、かえってその心は滅ぼすことを思い、あまたの国々を倒そうとする。」(イザヤ書10章5~7節)

つまり神はアッシリヤを使って不信のイスラエルを懲らしめておられるのですけれども、しかしアッシリヤはそのような目的に使われていることを認識せずに、自分は正しいから自分の力によって勝ったのだと考える。だから神は、後でアッスリヤを罰すると言っておられます。
ある民族を使ってユダヤ人を迫害させるのは、確かに神の御心です。ユダヤ人迫害が起こるのは、頑迷なイスラエルに対する、やむにやまれぬ神の深い御心なのです。
これを抜きにして、単にクリスチャンたちが「ユダヤ人をいじめてごめんなさい」ということだけでユダヤ人迫害を考えますと、どうしても片手落ちになってしまいます。どうして2千年にわたってユダヤ人が迫害されることを、神が許されたかを考えないと。
しかし、ユダヤ人迫害が神の意思であっても、迫害者が正しいということにはなりません。ユダヤ人の処罰に使われる民族は、必ず偶像礼拝者であり不義な人々です。「イスラエルよりも正しい人々が、その義のゆえにイスラエルを罰する栄光ある任務を与えられる」という発想は、少なくとも旧新約聖書には登場しません。神のイスラエルに対する罰は、たえず悪人に踏みにじられること。つまり、イスラエルを罰する仕事は、最も不名誉な恥ずべき役割なのです。
十字架の成就のために、十二弟子の一人の裏切者ユダや、ピラト、祭司長、ローマ兵たちが必要でしたが、だからといって、彼らが神からご褒美をいただくわけではありません。そういう不名誉な役割に用いられるくらいなら「生まれなかった方が良かった」(マタイ26:24)のです。

ユダヤ人の苦難は頑迷のため

申命記の28章やレビ記の26章を読んでいただきますと、基本的なパターンとして、私の律法を守るならあなた方を約束の地に住まわして祝福を与える、しかし律法を守らず偶像礼拝をするなら、あなた方を約束の地から追い出して非常にひどい迫害があるようにする。しかし、その迫害によってあなた方が悔い改めるなら、もう一度約束の地に帰れるのです。
代表的な箇所を読んでみましょう。レビ記26章3節からです。

「もし、あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行なうなら、わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、・・・・しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば、わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。それでもなお、あなたがたがわたしに聞き従わないならば、わたしはあなたがたの罪を七倍重く罰するであろう。・・・」

その後も、7倍重くするという言葉が、何度も繰り返されて出てきます。ふと気付いたのですが、紀元1世紀のときに、エルサレムが滅ぼされた時に、殺されたユダヤ人の数は、だいたい100万人ぐらいだと言われています。ホロコーストのときに殺された数は、だいたいその7倍くらいの数ではないかと思います。神はここに書いてある預言を数学的に正確に成就されるようです。これは、神の側にとっては大変なことなのです。神はこんな約束など成就したくはないのですが、どうしてもイスラエルが頑なになるなら、それを正確に成就しなければいけないのです、神も苦しんでおられると思うのですが。

災いの預言成就は祝福の保証

神の災いの預言は、人々が悔い改めない場合、成就しなければなりません。災いの預言の成就は、祝福の預言が成就することの保証でもあります。紀元1世紀にローマがやってきまして、エルサレムを破壊した時に、ラビ・アキバは、満面の笑み浮かべたのです。弟子たちが「先生、気でも違われたのですか、何を喜んでおられるのですか」と聞きましたら、ラビは答えました。「ミカ3:12に、こういう災いが起こるという預言があることを知らないのか。我々はずっとかたくなだったから、災いの預言が成就したのだ。しかし、その次の章には、エルサレムの栄光が預言されていることを知らないのか。滅びの預言がこうも正確に成就した以上、栄光の預言も必ず成就する。私はそれを見ているのだ」と。
以前、ネティブヤのメンバーでイフデットバルコフバさんという高齢の女性がおられまして、その人の証を聞いたときに、衝撃を受けました。彼女はホロコースト生存者で、子供の頃に逃げ回って、助かったのです。彼女は、聖書を全く知らない、世俗的なユダヤ人でした。家で全く聖書のことは教わらず、普通の異邦人と同じように暮らしてきたのです。ところがある日突然、ユダヤ人だという理由でナチスに追われ、家族がバラバラになって最後は何人かが生き延びました。やっぱり心が空しいので、なにか読むものはないかと、そしていろいろな本を読んで、最後に聖書にたどり着くのです。
旧約聖書を1ページ目から読んでいきまして、今読みましたレビ記の26章、それから申命記の28章まで来て愕然としたのです。将来になったら、あなたがたが私との契約を忘れて、他の神々に走って異邦人と同じような暮らしをする、そうすると恐ろしい人々がやってきて、あなた方を迫害するので、生きた心地がしなくなると。それこそが、彼女をはじめ多くのユダヤ人に起こったことだったからです。2千何百年前に書かれた書物が、まったく文字通り自分の身に成就していることを見て、すごく衝撃を受けました。そして、残りも真理に違いないと考え、イスラエル帰還預言、メシア預言も成就するに違いないということを確信し、新約聖書まで読んで信じたというのです。反ユダヤ主義は、ユダヤ人が頑迷であり続ける場合、神のご自身の忠実性を示すために、どうしても成就しなければいけなかったのです。

ユダヤ人に対する憎悪は選びから

ユダヤ民族に対する憎しみは、病的な側面を含んでいます。世界中でいろいろな民族が迫害された歴史がありますが、ユダヤ人に対する迫害には怨念がこもっています。イランの大統領アフマディネジャドは、ユダヤ人もユダヤ人国家も抹殺すべきだと公言しており、アラブ世界では喝采を浴びています。アラブの人たちも、そんな暴言に賛成しなくてもいいのですが、ユダヤ人が悪い人だという話を聞くとみんな熱狂するのです。ユダヤ人に対する憎しみには、独特の霊が働いているのです。
イスラエル批判は、合理的と言えるレベルをはるかに超えています。確かにパレスチナ人はひどい目にあっていますが、現在のイスラエル非難は、他の地域で横行している人権蹂躙に比べて、明らかに桁違いです。イスラエルがわずか何百キロか離れたところ、ダルフールという地域があり、民族虐殺でクリスチャンなど20万人が殺されました。しかし、その責任者であるスーダン政府に対する非難は、イスラエル非難に比べると、ほんのわずかなのです。
そんなにまでも反ユダヤで凝り固まるのは、やはりイスラエルに対して与えられている神の契約です。その契約を亡き物にしようとする霊が働いているとしか理解のしようがありません。聖書を一般の人が読んで、どうしても引っかかるのは選びです。聖書は、神がある人を選び、その人物に契約を与えて、そしてその契約からある民族が生まれてきた。その民族の歴史が聖書なのです。
なぜイスラエル民族だけが契約を与えられたのか。イスラエル民族を選ばなければ、もっと話は簡単だったはずなのですけれども、選んでしまったがために、聖書のあらゆる問題が生じてしまったのです。どうしてイスラエル民族だけが選ばれ、他の民族は選ばれなかったのか、これがあらゆる人の持つ疑問じゃないかと思います。そして、現代の教会の中にメシアニック・ジューが入ってきたときに、やっぱり、誰もが感じる疑問なのです。
どうしてこの人々だけが約束を与えられたのか。古い約束は無効だという話なら、まだ納得できるのですけれど、その約束はまだ有効だという。どうしてユダヤ人だけが特別な約束を与えられているのか、この意味を正確に理解しないと、ユダヤ人だけが得をしているように思えて仕方がないのです。

選びは他の人々のため

重要なことは、選びの目的です。ヨセフ・シュラム先生が言われたのですが、選びは必ず本人のためではなくて、別の人々のためなのです。選びが別の人のためなのだという原理は、聖書を理解するうえで重要です。もし選びが選ばれた人だけのためのものだったら、それはえこひいき以外の何でもないからです。
ユダヤ人は本人の意思に関係なく、8日目に割礼を受けされられます。本人がどう思っていようが、全然関係なし。それで契約に入れられるのです。本人が選んでもいないのに、いやいや律法全部を守らされるのです。
そして選らばれた人々は、約束の民としてずっとやって来ました。現実的に何千年もユダヤの民族性を保って、孫子の代までユダヤ人に育てるという、これは本当に並大抵のことではありません。私も自分で子どもを持って分かりましたけれども、子どもをちゃんと育てるというのは、これは大変なことなのですね。子どもでさえ言うこと聞かないのに、孫、ひ孫、玄孫(やしゃご)もみんなユダヤ人にしていかないといけないのです。これはもの凄いプレッシャーだと皆さん思いませんか? その重荷を持って彼らはずっとユダヤ性を守ってやってきてくれたのです。
しかしながら、彼らが今までユダヤ人として、選ばれることによって、どのような得をしてきたのかということを考えていただきたい。彼らは今のところ、少なくとも大した得はしていないのです。『屋根の上のバイオリン弾き』という芝居にテビエというユダヤ人が出てくるのですが、神に向かって文句を言うのです。「神さん私らを選んでいただいて、祝福をいただいてありがとうございます。しかしながら、できたら他の人々を選んでくれていたらよかったのですが」と彼は言うのです。5千年間の民族史を通じまして、彼らがすっと願ってきたのはユダヤ人をやめることとなんです。普通の人間になりたいと願い続けていたのに、神の強制的な意思によって、ユダヤ民族であり続けてきたのです。

神の忠実性を証するため

それは神の契約が絶対に成就することを示すためでした。旧約聖書を注意して読んでいただいたら分かりますが、祝福の約束よりも呪いの約束の方が多いのです。神様は、これに書いた通りに私が実行することを証明するために、わざわざイスラエルという民族を選んだのです。
でも選ばれた方はたまったものではないのです。災いの預言を全部体験するという任務を彼らは与えられまして、それを民族史を通じて、やらされてきているのです。ユダヤ人たちが苦しむことは神の御心だったのです。それが成就しなければ、契約が永遠であることが証明できないですから。
しかし、彼らが苦しんでいる事情が分かっている私たちクリスチャンは、彼らの苦難を黙って見ていれば良いわけではありません。オバデヤ書のように、神から罰を受けているイスラエルを、嘲笑ってはいけないのです。

執り成しはクリスチャンの役目

そうではなく、私たちは主に向かって執り成さないといけないのです。

主に仕える祭司たちは、廊と祭壇との間で泣いて言え、「主よ、あなたの民をゆるし、あなたの嗣業をもろもろの国民のうちに、そしりと笑い草にさせないでください。どうしてもろもろの国民に、『彼らの神はどこにいるのか』と/言わせてよいでしょうか」。(ヨエル2:17)
「主なる神よ、どうぞ、やめてください。ヤコブは小さい者です、どうして立つことができましょう」。(アモス7:5)

皆さん、神がユダヤ人を使って血と涙のドラマを諸国民の前で演じさせておられる目的はただ1つ、諸国民が神を知るためなのです。私たち諸国民が神を知るために、わざわざすごい舞台装置を作って、役者を準備し、呪いの約束と、祝福の約束を書いて、その通りにちゃんと実行して、私はこの通り約束を守る神だと、全地の主だと神は諸国民に語っておられるのです。
諸国民がイスラエルの苦しみを見て、ああ、神は罰すべきものを罰されるのだと。そして、神はあわれみによって罪を許されることを、イスラエルの民族史とメシアニック・ジューの出現を通じて、諸国民は見ないといけないのです。
ですから、諸国民がその意味を理解しなかったら、永遠にイスラエルは舞台から下りられないのです。諸国民がそれを見て主を知ると書いてあるのですから。

私たちの仕事

しかし、今の日本のクリスチャンの大半は、この神のドラマの意味を理解していません。国を失った民が、二千年ぶりに国に帰り、決してイエスを信じないと思われていたのに、今やイエスを信じているという、これらの奇跡を見ても、今のイスラエルやユダヤ人は聖書とは関係ないと思っています。「あのイスラエルと聖書のイスラエルは無関係です」と言っているのです。
クリスチャンは、人々に神の演出しておられる世紀のドラマを見るように勧め、その意味を説き明かすべき立場であるにもかかわらず、一生懸命に聖書とイスラエルは無関係だと主張しているのです。神が泣きの涙で自分の愛するイスラエルを打ち叩いておられるのというのに、クリスチャンにその意味がわからないというのは、本当に悲しい、困った話ではないでしょうか。
イスラエルの苦しみを一日も早く取り除くためには、彼らに直接的に悔い改めを迫ることも必要ですし、神に向かって「ヤコブは小さいものです、どうして耐えることができましょうか。彼らを赦してください」と執り成し祈ることも必要です。
でも、クリスチャンがそう祈ったら、神は言われるのではないでしょうか。「お前たちが、地の果てまで私の証人となり、この契約のドラマの意味を語り伝えてくれて、諸国民が神を知らないことには、幕は引けないのだよ」と。イスラエルのために祈ることと、日本で福音を伝えることは、深く関係しているのです。

石井田直二(シオンとの架け橋)