カナの婚礼の奇跡から ~ 「水をくんだ僕たちは知っていた」

多くの人がイエスを信じたのは、彼の行う奇跡を見たからでしたが、イエスがまだ何の奇跡もしなかった時から従っていた弟子たちもいました。彼らはある日、イエスの奇跡を目撃することになりました。それが、最初の奇跡、カナの婚礼での奇跡です。

聖書においては、様々な逸話(エピソード)が紹介されていますが、それぞれに3種類の意味があります。それは、まず当時の記録として、そして教訓として、さらに未来に起こることの預言としての意味です。この逸話は、第一に奇跡の歴史的な記録です。第二に、その登場人物の行動を通して、私たちは教訓を学ぶことができます。第三には、それが将来に起こることの影、すなわち預言となっています。

この箇所が「結婚式」である点に注意が必要です。聖書には結婚式の例話がいくつか出て来ますが、それは結婚が神とイスラエルの関係、キリストと教会の関係を示しているからです。神はイスラエルを「若い時の花嫁」(エレミヤ2:2)と呼んでおり、新約聖書の数箇所で教会はキリストの「花嫁」とされています。そして、結婚式は終末時代を意味しているのです。 また、聖書においては「初めのアダム」と「最後のアダム」に見られるように、初めと終わりは対応関係にあります。ですから、最初の奇跡は最後の奇跡と相似関係にあると思われます。ですから、この事件には終わりの日についての重要な秘密が隠されていると思われます。さて、前置きはこれくらいにして、聖書に入りましょう。


この物語は、ヨハネ2章に登場します。

2:1 三日目にガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
2:4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
2:5 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
2:6 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
2:8 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
2:9 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで
2:10 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた。

いきなり「三日目に」から始まるので、どの日から三日目なのか様々な解釈がありますが、「ある火曜日に」という意味だとの解釈を、メシアニック・ジューから聞いたことがあります。ヘブライ語には曜日の名前が無く、単に「何日目」と言うからです。ちなみに、アジアの言語では中国語も曜日を「星期一」「星期二」と数字で呼びますが、こちらは月曜日が「一」です。しかし、ヘブライ語では日曜日から起算するので、日曜日がヨム・リション(最初の日)、月曜日がヨム・シェニー(2日目)、そして火曜日がヨム・シェリシー(3日目)となります。
この解釈のもう一つの根拠は、実際、ユダヤ式の結婚式の多くは火曜日に行われるからです。創造の六日間で、神はそれぞれ「良しとされた」と言っておられますが、三日目には、二回も「良しとされた」が出て来るので、この日には2人分の祝福があると考えられているからです。ちょうど、日本で言えば大安吉日のようなものですね。

マリヤとイエスは「何の関わり」があったのか 

さて、招かれた彼らは、披露宴を楽しんでいましたが、ワインが切れてしまいました。これは大失態です。こういう場合、現代の日本では披露宴の「幹事」という役の人がいて、その人が何とか考えるのですが、この時は誰が責任者だったのでしょうか。今の宴会なら「飲み放題プラン」がありますが、そういうものは無かったので、ワインが切れると大変な失態でした。最後に料理長が花婿を呼んでいるところを見ると、花婿はワインの心配をしながら今年に出ていたのかもしれません。

とにかく、ワインが無くなったので主催者たちは真っ青になりました。宴席では多くの人が騒いでいますが、関係者は走り回り始めました。誰かがワインを手に入れて来なくてはなりません。そこで、イエスの母マリヤも心配を始めました。

中東の結婚式は1週間くらいかけて宴会をしたので、この披露宴もそうだったと考える人もいます。しかし、1週間の宴会で、3日目か4日目でワインが無くなったという話ではないと、私は思います。そういう状況なら、ワインが不足することがわかってから、普通の方法で近隣の町や村を回ってワインを入手しても十分に間に合いますので、あえて奇跡をするまでもありません。

ユダヤの結婚式は他の例話にもあるように夜にするものなので、深夜まで続く宴の途中でワインが切れたと、私は思います。そうなると、店も閉まっているし、どこかの家から手に入れて来るわけにもいきません。大変困ったことになったと思われます。

マリヤはイエスにも声をかけましたが、なぜかイエスは「婦人よ、わたしとあなたと何の関わりがありますか」と答えました。この奇妙なやり取りの意味は、いくつかに解釈できます。一部の翻訳は、このイエスの言葉を「あなたも私も、ワインが無くなったことに責任は無いでしょう」という意味に解していますが、5節でマリヤが僕に命じているところを見ると、マリヤは結婚式の主催者に近い立場だったようです。婚礼の主催者が雇った人々に直接命令できたとすれば、かなり深い関係があったのでしょう。やはり、マリヤ自身が責任を感じる立場にあったと考えるのが自然です。

イエスも弟子たちも婚宴に招かれましたが、家の主人は、イエスが十二人もの弟子を引き連れて来るのは想定外だったのかも知れません。彼らは「大酒を飲む者」と非難されているので、かなりワインを飲んだのかもしれません。そうであれば、ワインが不足したことの原因の一端はイエスと弟子たちにもあったことになります。

イエスの「時」はいつだったのか

いずれにしても、イエスはこのマリヤからの言葉を、何か重大な要請であると解釈し、突然「婦人よ」と答えました。そして「わたしの時はまだ来ていません」という、なかば断りとも取れる発言をしたのです。イエスが「わたしの時はまだ来ていません」と言っておいて、実際には何か行動をするというパターンは、7章の仮庵の祭りで、もう一回あります。(ヨハネ7:6)

その箇所から考えても、ここで言う「わたしの時」とは、公開の場で自分の「しるし」を見せることだったと思われます。つまり、イエスは「時が来ていない」と言っていましたが、実際には「時」は来てしまったことを私たちは聖書から知ることができます。

イエスのカレンダーには、赤い印がついていたのでしょうか。もし、ある日に赤い印がついていたとすれば、それはもう変えることができないはずです。イエスはまだ「その日ではない」と言いましたが、実際にはこの日、イエスはしるしを行いました。時は決まっていたのか、決まっていなかったか、どちらなのでしょうか。

結婚式は、たいてい予定が決まっているので「まだその日ではありません」と言っていたカップルが、その日の夕方には結婚している、などということはありえません。結婚式には招待状を送らないといけないですし、友人代表や仲人、ラビにもお願いしてみなさん出席してもらわないといけないのですから、急に予定は変えられません。

しかし、プロポーズはどうでしょうか。相手から「結婚についてどう考えてるの?」と言われて「まだ時が来ていません」などと言う人は、めったにいないと思います。プロポーズは、たいてい「その場の勢い」でするもので、前々から予定を決めてするものではないでしょう。では、イエスの言う「時」は、決まっていたのか決まっていなかったのか、どちらでしょうか。予定が決まっていて変更不可能だったとすれば「時が来ていない」という言葉でイエスは嘘をついたことになります。一方、決まった日が無かったとすれば、やっぱり「時がきていない」というイエスの言葉は嘘だったことになってしまいます。

神の時(カイロス)は変更可能である

この矛盾を解決するのは、時は一応決まっているが、変更可能だとする見解です。実際、聖書の中には、以下のように時が変更可能であることを示す言葉があります。

イザヤ60:22 時が来れば速やかにそれを成す
マタイ24:22 父が時を縮める
Ⅱペテロ3:9  一人も滅びないように忍耐しておられる

とすれば、私たちの働きかけによって、時は変更される可能性があるのです。ここが、私が今日、私がお話ししたい重要ポイントです。たとえば、エジプトの400年間、バビロン捕囚の70年間のように、神が具体的な時を限定される場合もありますが、一方で

マタイ24:36、使徒1:7 「父だけがその時を知っている」

との記事もあります。それは、時を早めるか遅めるか、神ご自身が決定権を最後まで握っておられることを意味していると思われます。 ですから、イエスが「時でない」と最初に言われた時には、本当に時ではなかったが、この場の人々の行動で、その時が早められたのではないでしょうか。イエスが嘘をついておられないとすれば、これが最も妥当な解釈でしょう。 すると、この箇所には、まだ来ていなかったはずの時を来たらせるという、重大な秘密が隠されているはずです。私たちは主の来臨、小羊の婚宴の時を待ち望んでいますが、その時を早く来たらせる秘密が隠されているのです。
この事件の時、婚宴の主催者の一人であったマリヤは大変に困っていて、ここでイエスに何かしてもらわないことには、大失態を演じるところでした。そこで、イエスの「時が来ていない」という言葉を聞いたマリヤは、とにかく「時」さえ来れば問題解決の道が開けることを理解しました。

僕へのマリヤの指示

そして、マリヤは「このかたが、あなたがたに言いつけることは何でもして下さい」と僕たちに命じました。彼女がどう考えたのかはわかりません。ある注解者は、イエスがお金を渡し、僕たちに酒を買いに行かせることをマリヤが期待していたと言っています。そうかも知れません。しかし、イエスの考えは違いました。

「言いつけることは何でもして下さい」というマリヤの指示は重要な原則を示しています。時を縮めるためには、誰かが主の命令に従うという姿勢を取ることが重要なのです。
そしてイエスのところに、僕たちがやって来て言いました。「主よ、私たちは何をすればいいのでしょうか」と。誰かを使ったことのある人はおわかりでしょうが、人を使うとは、仕事を与えることです。ですから、その立場に立てば、部下が来て「仕事がありません。何かすることはありませんか」と言ってくると、大変なプレッシャーを感じます。中間管理職なら「なんで部下を遊ばせているのか」と社長に言われてしまいます。イエスも同じで「何をしましょうか」と男たちに言われて、行動を促されたと私は思います。

私たちは何をすればいいのか

私たちは、ともすると「ああして下さい、こうして下さい」と神様に要望を出しがちです。しかし、自分から「おっしゃることは何でも致します。黙って従いますから、主よ、どうぞ命じて下さい」という姿勢を取ることはめったにありません。そして、たまに命令を与えられると「主よ、その仕事はいやです。私はもっとクリエイティブな仕事がしたいのです」とか「私の賜物を生かすには、別の仕事がいいでのす」などと注文をつけます。時にはゼベダイの母のように「うちの息子には、特別な仕事をさせてやって下さい」と言います。そして「その仕事はけっこうですが、○○さんと一緒にやるのはいやです」と文句をつけるのです。

神様がモーセに仕事をお命じになった時の問答を見ていると、とても忍耐強く、丁寧に仕事を頼んでおられることがわかります。ですから、神様は多少のわがままは聞いてくださるのでしょうが、でも、そのわがままを聞いているうちに、仕事がどんどん遅れてしまいます。つまり「その時」がなかなか来なくなってしまうのです。

でも、この僕たちはマリヤの指示を受けて、イエスの命令を聞く姿勢を取りました。そこでイエスは、命令を出さざるを得ない立場に追い込まれたのです。これが、「時」を来たらせることになりました。

不合理な命令

しかし、イエスの出した命令は実に奇妙なものでした。100リットルほど入る巨大な石の水がめ6つに水を満たせというのです。結婚式が夜に行われたと考えれば、暗い夜に600リットルの水を井戸から運ぶのは大変なことです。1回に井戸から汲み出して運べる量が5~10リットルとすれば、それを100回くらい繰り返さなければなりません。井戸から家までどれくらいの距離があったかわかりませんが、1トン近い水を運ぶのに、数人がかりで1時間以上はかかったのではないでしょうか。

ワインが無くなった、という問題を解決するために働いていることを、僕たちは知っていたのでしょうか。もしそうだとすれば、自分たちのやっている重労働が、どうして、その問題解決に役立つのか、きっと不思議に思ったことでしょう。常識的に見て、いくら水を汲んでもワイン不足の解決には役立たないはずです。

ワインが無くなったことを知らなかったとしても、やはり不思議に思ったはずです。だいたい、清めの水が必要なのは外から客が入って来た時なので、宴たけなわになれば、もうほとんどいらなくなるのです。宴会のお客様をほっておいて、何に役立つのかわからない、不急の水汲み作業に駆り出された僕はどう考えたのでしょうか。

でも、彼らはとにかく、その仕事をやりとげました。その作業を、イエスはじっと見守っていたようです。「ご主人様、なぜこんなことをするのですか」と聞いた僕はいなかったのでしょうか。もし重要な会話があれば、聖書の記者が記録したはずなので、たぶん、あまり意味のある会話は無かったのでしょう。彼らは黙々と仕事を続けました。8分目くらい入ったところで、「もう、これくらいでいいでしょう」と彼らは言ったかもしれません。しかし、イエスは言われました「だめだ。口の所までいっぱいにするのだ」と。

杯を満たす

現代人、特に福音派のクリスチャンは、意味を理解することを重視します。しかし、ユダヤ人たちの思考方式では、意味がわからなくても、言われたとおり行動すべきだと考えます。もし、ここで水をくんだ僕たちが、現代の福音派クリスチャンだったら、直ちに抗議したはずです。「主よ。ワインが足りないのに、水を満たしてどうするのですか。そんなことが、聖書のどこに書いてありますか」と。「水は何の象徴なのですか」「かめの1つを満たすだけではだめなのですか」と聞いたかもしれません。しかし、この僕たちはどうも「ユダヤ的思考方式」だったようで、黙って仕事を続けました。

昨年、来日されたレオン・マジン師は面白い話をしておられました。親と先生は子供に宿題をさせるが、子供はなぜそんな面倒な宿題をするのかわからない。テレビを見た方がずっと楽しいのに。でも、意味はわからなくても黙って宿題をし続ければ、ある時に彼は大学教授になれる…と。

ユダヤの祭も同じで、過越の祭など、何の意味があるのかよくわかりません。しかし、ユダヤ人たちがそれを2千年ほど続けて祝い続けていると、最後にはメシアを通じて永遠の過越が成就しました。私たちもまた、聖餐式を行っていますが、そうして主の死を宣言し続けていると、ついに再臨がある(Ⅰコリント11:26)というのです。

要するに、意味はわからなくても、ずっと忠実にあることを続け、それが満ちると何かが起こるという、これは聖書の中に出てくる一つの原理です。祈りもそれと同じで、1回、2回、3回祈っただけでは聞いてもらえなくても、何十年も祈り続けると、最後にそれが聞かれるということを、私たちも体験して来ました。

ついに水は満たされた

そして、長い重労働はついに終わりました。水は満ちたのです。僕たちはまだ、何が起こるかを知りませんでした。いつ、水がワインになったのか、議論の余地があるところですが、たぶん石がめが満ちるまでは水だったのでしょう。

彼らは「さあこれからどうなるのか」と、疑問を持ったことだと思います。イエスは言われました。「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」と。ここで「彼ら」が持って行ったと、複数形で書かれているのは、たぶんこの時点で水がワインに変わったからだと、私は想像します。そうでなければ、料理がしらのところに少しの水を持って行くぐらい、1人で十分だったからです。僕たちは、ワインに酔ったからではなく、奇跡を目の当たりにして顔を紅潮させ、息せき切って料理がしらのところに持って行ったことでしょう。

料理がしらは、ただ上等のワインを味わったので驚いただけでしたが、水をくんだ僕たちは奇跡の一部始終を目にしました。みなさん、もしもこの奇跡に、誰かの役割で参加するする機会が与えられたとすれば、どの役を希望されますか。弟子たちは何もせず、ただ宴会に出ていただけでしたが、イエスの奇跡を知り信じました。私なら、大変な役ではありますが、僕の役を選ぶでしょう。僕は、何も知らないで夜に長時間の重労働に耐えました。でも、最後には奇跡を目の当たりにすることができたのです。彼らが信じたかどうか、聖書は何も書いていませんが、きっと信じたのではないかと思います。

私たちの時代に

さて、最初にお話ししたように、キリストとその花嫁である教会の婚宴の日が近づいています。それがいつかはわかりませんが、私たちはそれを待ち望んでいます。

今、キリストの花嫁である教会は、婚宴の日が近づいているというのに、ワインが切れている状態です。カナの婚礼の奇跡は、十人の乙女のたとえと同じ意味の終末預言でもあるのでしょう。終わりの日が近づいているのに、重要なものが無くなりかけているのです。とりあえず教会に人は来ていますが、日本では100年間にわたってキリスト教は1%の壁をやぶれず、今や牧師になる人が足りないので、無牧の教会が急増しています。まさに、宴であるべき場所に、重要なワインが無くなっているのです。

聖霊は今、私たちに呼びかけておられます。「このかたが、あなたがたに言いつけることは何でもして下さい」と。私たちは「主よ、何をすればいいですか。何でもご命令に従います」と言う必要があります。そして、たとえ夜中に水を汲むという、全く理解できない不合理な命令であっても、黙って従う必要があるのです。イスラエルのために祈ることも、ちょうどこれと同じです。日本でリバイバルが必要なのに、イスラエルのために祈って、一体、あなたがたは何をしているのか、と多くの人は考えます。でも、それが満ちた時、私たちの予想を超える、すばらしいことが起こり、喜びが満ち溢れるのです。

だから、私たちは主にこう言いましょう「主よ、どうぞ命じて下さい。言いつけられることは何でも致します」と。そして、私たちが黙って主の命令に従うとき、まだ来ていなかったはずの「主の時」が来るのです。そのために、喜んで重労働をしようではありませんか!

石井田 直二