救いの個人的側面と集団的側面

イスラエルに対する神の約束を論じる場合、最も多く聞く反論は、民族や家系で神との関係が決まることはありえないという意見です。民族や家系がなぜ神と人との関係に影響しないといけないのでしょうか。そこで今回は、罪と赦し、救いの集団的・共同体的な側面について、聖書の考え方を検証してみたいと思います。

はじめに

私がこの春に韓国の聖会に行った時のことは、シオンとの架け橋のニュースレターでも報告した通りですが、日本、韓国、中国が和解するための時間が持たれ、それなりに有意義な時となりました。日本とアジア各国が何かを共同で行なう場合、過去の謝罪と和解というテーマが必ず取り上げられます。

私たちが取り組んでいるクリスチャンとユダヤ人の関係においてもまた、過去の謝罪と和解というテーマは重大な意味を持っています。これまで全世界で何度となく、クリスチャンとユダヤ人の謝罪や和解の機会が持たれてきました。

しかし、こうした場面では、実際の加害者や被害者ではなく、たいてい次の世代の人々が謝罪や和解を行なっています。これは非常に不思議なことです。罪を犯した本人でなくても、後の世代の日本人が、過去の罪について申し訳なく思っていると言うと、それで被害者の人々はある程度は納得します。ある意味で、すでに死去した世代の人々を代理して、生きている人々が反省や贖罪ができるのです。つまり、罪が世代を超えて継承され、そして後の世代の人々がそれを贖えるという、一つの原理があるのではないかと、考えられます。

一見すると、こういうものの考え方は、非聖書的に聞こえるかもしれませんが、そうでもありません。アダムの罪により後代の人々も影響を受け、またイエスの贖罪がそえを解決するという原理は、まさに罪が集団的に世代を超えて継承されることを示しています。

聖書で民族や家系の罪を検証 

聖書において民族的・集団的な罪や救いがある証拠は、その気になって探せばいくらでも見つかります。 まずは旧約聖書から調べてみましょう。

○ハムの子孫が呪われる(創世記9章)という預言は、今なお影響を与えていて、ハムの子孫だと見られるカナン人、アフリカ人は、劣悪な状況に置かれています。

○アブラハムの子孫に対する約束(創世記12章、15章)は、子孫に継承されて現代のイスラエル民族に及んでいることは、この集会に出席している皆様にとっては、当然のことだと思います。

○アマレクの罪も世代を超えて継承されました。出エジプト17章、申命記25:17などでは、アマレクの罪が言及されていますが、その罪が報いられるのはサムエル上15章です。彼らはサウルによって聖絶という厳しい処分を受けました。しかし、ちょっと考えてみて下さい。アマレクの人々がイスラエルを攻めたのは、その何百年も前の話。私たちにとって言えば、秀吉の朝鮮出兵について、現代の私たちが処罰を受ける、というような話です。これは、罪が民族的に継承される一つの例でしょう。

○創世記15:16では、アモリ人の罪が満ちるまで何世代もかけてヘブル人たちがエジプトで「時間待ち」をするという、奇妙な記述があります。どうやら、民族の罪は継承され、累積されて行くようです。

○ゼカリヤ14:16には、終末時代になると、仮庵の祭の時に諸国民がエルサレムに上らないと罰を受けると書かれています。これはあくまで民族単位です。雨が降るか降らないかは、かなり広い範囲ですから、ある人のところには雨が降って、隣の人の所には雨が降らないということはありえません。また、祭にエルサレムに上るのも、当然、全員ではなく民族が代表団を送り込むという意味でしょう。そうでないと、全人類がエルサレムに殺到することになりますから。

○そして、出エジプト32章などを見ると、イスラエル民族の罪は、個人ではなく民族単位での連帯責任となっています。 ・イザヤ書19:24には、イスラエル以外の民族もまた、民族的救いを受けると預言されています。ここはアッシリアとエジプトだけですが、もちろん、その他の民族についても、民族単位で神のご計画があると私は考えています。

民族や集団の罪や救いが登場するのは、旧約だけであって、新約においてはもう時代遅れだという意見もあるかと思います。そうでもありません。

○第一に、ユダヤ人は血の責任を取る(マタイ27:25)と言ったがために、長年にわたって筆舌に尽くし難い苦難に遭いました。ユダヤ人ではなくローマ人が殺したという意見もありますが、それはあまり聖書的な説明ではありません。ペテロはペンテコステの説教で二度も「あなたがたが殺したイエス」と明言しています。念のため付言しておきますが、イザヤ10章にあるように、神は必ず罪人を使ってユダヤ人に罰をお与えになるのが原則なので、クリスチャンのユダヤ人迫害が「正しかった」わけではありません。

○ペテロは世界中からペンテコステを祝うために集まった巡礼者たちに向かって「あなたがたが殺したイエス」と言っていますが、実際にイエスの処刑に参加した人々と、その場に集まった巡礼者たちは、一部は重なっていたでしょうが、大半は別人であったのではないかと推測されます。しかしペテロは「あなたがた」とその場にいた人々を糾弾しています。

○しかしユダヤ人は、呪われているばかりではありません。パウロは彼らが「父祖たちのゆえに神に愛されるもの」(ローマ11:28)であると言っています。これは、祝福が新約時代でも民族や家系で継承される明らかな例の一つです。

○そして、信仰もまた個人で完結するわけではありません。ヘブル書11章の、通称「信仰列伝」では、40節に「私たちが彼らを全うする」と書かれています。つまり、ダビデやアブラハムの信仰を、私たちが全うするというのです。彼らは信仰によって待ち望んだが、約束のものは受けられず、それを私たちが受けることで、彼らが全うされるという、これはとても不思議な発想です。

○また、黙示録の七つの教会や、諸教会に対する書簡では、教会単位で罪の悔い改めが迫られている点にも注意が必要です。つまり、教会という共同体の罪は全員の罪であり「私だけはしっかり信仰しました」という言い訳は通用しないのです。

こうして見て来ると、民族、家、教会などの共同体単位で罪がカウントされ、また贖いや信仰も共同体単位で評価されるのが、聖書の基本原則のように思えます。私自身のことを言わせていただけば、私が今イスラエルのために働いているのは、想像もできないほどの祈りを積み上げて下さった信仰の先輩たちの祈りに対する答であり、私だけの信仰ではありません。つまり、信仰はマラソンではなく駅伝のようなものではないかと思うのです。

そこで、個人的な罪や救いが先にあるのではなく、民族単位での罪や贖いの原則があり、そこから個人的な救いという概念が派生して来たのではないかというのが、本日の私の論点です。個人の救いは、共同体の救いという文脈の中に位置づけて、初めてその本当の意味が出て来るのではないでしょうか。


近代の個人主義の功罪

近代では、家とか民族など「共同体」という意識が失われ、その概念が理解できなくなっています。しかし、つい最近まで、共同体の利益を守ることは人間の基本でした。昔は、家族や共同体単位で何でも考えていたのです。

たとえば、林業という仕事を考えて見ましょう。投資から回収まで膨大な年月がかかるため、今やっている仕事の「果実」を自分で見ることはできません。自分は祖先の労苦によって生活し、自分は孫やその子孫のために働いているのです。しかし、近年では「家」という概念が崩れつつあります。子供に家業を継がせることが悪で、子供には自由に職業を選ばせるのが善だという価値観が入ってくれば、林業は成り立ちません。林業が衰退しているのは、東南アジアの材木が安く入ってくることが原因ですが、家制度の崩壊も原因の一つです。

最近、ガウディの設計したサグラダ・ファミリア教会が献堂されたというニュースが流れていました。建築開始から120年以上経っているとのことですが、まだ百年単位の工期が予想されています。自分たちの子孫が延々とその工事を続けてくれるであろうことを確信し、工事を続けるというのは、本当に驚くべき信仰です。日本のプロテスタント教会では(再臨がいつあるかという議論は別として)、自分の教会が何百年も存在し続けるというビジョンに基づき、何かプロジェクトを始められる所など、ほとんど無いように思えます。信仰とは個人でするものではなく共同体でするものだという世界観が無ければ、とても数百年単位のプロジェクトなど始められません。

つい最近まで、家や地域、民族という共同体は具体的な実体だったのですが、近代ではそれがすっかり失われています。これは、個人主義という近代の発明でそうなってしまったのであって、ごく最近の現象です。そう考えてみると、罪や救い、信仰を個人的側面だけから考える近代の神学は、かなり歪んだものであるように思います。信仰共同体を中心に考えれば、ある人の祈りや信仰の成果を後代の人が受取り、それで先代が全うされると言う、ヘブル書11章の発想は何の疑問もありません。使徒 16:31には、イエスを信じると「あなたもあなたの家族も救われます」という言葉が出て来ます。この言葉は解釈が分かれる言葉ですが、家族を一つの共同体と考えると、とても納得できる言葉です。

私自身、2代前の人がクリスチャンになってくれた「おかげ」で、信仰に導かれました。私ははっきり告白しておきますが、もしそうでなければ私が福音に出会う確率など、ほとんどゼロだったと思います。でも、祖父母がクリスチャンになってくれたおかげで、私は信仰を持てました。自分が信じただけで、家族が「自動的」に救われるわけではありませんが、家族伝道をしっかりして、子供に信仰教育を続けて行けば、長い時間をかけて家族は救われて行きます。家族も救われるというのは、長い目で家族という共同体を見れば事実です。家族が「全て」救われるとは限りませんが・・

個人の救いよりも重要な共同体の救い 

私はここで、新しい救いの定義を持ち出そうとしているのではありません。聖書に登場する「救い」という言葉には、いくつかの意味があり、それには個人的側面があります。それぞれ個人が決心し、救いを受け入れなければなりません。共同体が救われれば、その全メンバーが「自動的に」救われるのではないのです。それでも、神のご計画はたえず共同体の救いであり、共同体の中で可能な限り全ての魂が救われることを、神は願っておられるのではないでしょうか。
ですから、聖書の中で多くの重要人物が、自分個人の救いなどはどうなってもいいから、民族、家族の救いを成就してほしいと、神に決死の執り成しを行なっているのです。アブラハムが神から大きな祝福を与えられた時、彼は、まるでそんなことはどうでもいいという口ぶりで「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」(創世記15:2)と言っています。皆さん、もし神様から直々に「あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」などと言われたら、たいてい大喜びして「ハレルヤ!主よ感謝します!」と言われるのではないでしょうか。ところが、アブラハムはそうではなかったのです。

モーセもまた、出エジプト記32章で民が金の子牛を作って神の怒りを買った後、もし民を滅ぼすなら、まず私の名前を命の書から消して(つまり永遠の命を取り消して)ほしい(32節)、と神に言っています。そしてパウロも、ローマ書9:3で、イスラエルのためなら自分の救いを棒に振っても良いと言います。つまり、信仰の偉人たちは、民が滅びるのに自分だけ助かったことを喜ぶ人々では無かったのです。

ピーター・ツカヒラ先生が2年ほど前、「民族的救いのビジョンが無ければ日本でリバイバルは起きないだろう」と言っておられました。確かに、そうかもしれません。日本人は「滅私奉公」の精神、つまり主君や国、時には会社のために人々が命を捨てる民族です。しかも、イスラム教徒やキリスト教徒のように、死後の世界で報酬を受けるという概念はありません。つまり、利己的でない動機で己を共同体のために捨てることが美徳とされる価値観を持っているのです。そういう国で、悪い言い方をすれば「みんなが滅びる中で、あなただけが救われるのですから、感謝しましょう」という、個人の救いを中心とした教えは根付きにくいでしょう。しかし「共同体の救い」を中心に考えるとすれば、日本人的な特性は逆に生きてくるはずです。モーセやパウロのように、自分を捨てても民族の救いのために働くクリスチャンがもっと多く出てくるはずなのです。


祭司の務め

先月に来日されたガイ・コーヘン師は、大祭司の家系に生まれたメシアニック・ジューです。師は、クリスチャンが「新約の祭司」(Ⅰペテロ2:5)とされていながら、その仕事の重大な責任を自覚していないと嘆いておられました。祭司とは、自分の民族のために神に執り成しをする役目です。ですから、自分が祭司にされたと思って、偉くなった気分でいたら大変なことになります。祭司は自分自身のために祭司なのではなく、神を代理して共同体に奉仕し、共同体を代表して神に奉仕する役目を持っています。つまり他者のために働くのが祭司です。

「万人祭司」はプロテスタントのキャッチフレーズとなっていますが、自分が誰の仲介も必要とせずに神と直結できるという意味だけでなく、神とノンクリスチャンの間を執り成す重責があることを自覚しなければなりません。

共同体の救いと、個人の救いとの関係を考える際に、クリスチャンが祭司だという概念は重要です。神はある共同体全体の救いを成就するために、ごく少数の人々を先に召して、その人々に他の人々のために執り成す責任をお与えになるのです。祭司は自分の意思でなることはできず、たえず神からの一方的な選びによって任命されます。皆さんは、自分で神を選んだのではなく、神によって祭司として選ばれたのです。

少数の義人は、多数の人を滅びから救うことができます。創世記18章では、わずか10人の正しい人がいるだけで、罪にまみれたソドムが滅びを免れるという、驚くべき原理が示されています。エルサレムについては、エゼキエル22:30から、神がこの都を滅ぼしたくないので「破れ口に立つ」人を捜し求めておられたことがわかります。エレミヤ5:1は、義人が一人でもいれば、神はエルサレムを滅ぼされないと言っています。

さて、皆様は日本民族の中から、たった1%のクリスチャンとして神から選ばれた方々です。神が皆さんを選ばれたのは、皆さんだけを「えこひいき」して救うためなのでしょうか? そうではありません。神は日本民族をどうしても救おうとして、その「保証」または「手付金」として皆様を選ばれたのです。皆さんの家族について言えば、家族という共同体を救うために、その「初穂」として皆様を選ばれたのです。皆さんが罪から清められたのは、自分の救いのためではなく、祭司となって他の人々の贖いのために執り成す仕事をするためなのです。レビ記によれば、祭司はまず、自分の罪を贖い、次に人々のために贖いの業をします。

家族、地域、民族など、どんな共同体であっても、もしその中の一人が救われたなら、それは共同体全員の救いのための「手付金」です。誰でも救われた人は、自分の属する共同体に対する自分の使命(あるいは重荷)を自覚しなければなりません。

最後に、前の東京駐在イスラエル大使だったエリ・コーヘン大使の話をさせていただきます。私は大使の通訳をしたことがありますが、その時に「祭司の役割は何ですか」という質問が出ました。大使は名前からもわかるように祭司(コーヘン)の家系なのです。そこで、大使はとても真剣になって「祭司は人々を祝福する役目だ。シナゴグでの礼拝の時、アロンの祝福の時間になると、祭司の家系の人は前に出て人々を祝福しなければならない。もし祝福したくないなら、彼らは部屋から出ないといけないという決まりだ。だが、最近の若いコーヘンは前に出て祝福するのが恥ずかしいので、部屋から出る連中が増えている。嘆かわしいことだ」と言われたのです。同じように祭司の家系であるガイ・コーヘン師に確かめたところ、確かに最近はそうなっているようです。

つまり、祭司は会衆に混じって、人々と同じように祝福されることは許されません。人々を祝福することによってしか自分は祝福を受けられないのです。クリスチャンは、そういう役割に神から任じられていることを自覚していただきたい。日本民族の救いの保証として、手付金として救われた私たちは「自分たちが祝福されたことを感謝します」と喜んでばかりはいられないのです。人々を祝福しなければ、祭司にされた意味はありません。99%の日本人がまだ救われていない今、「日本人のためなら、また私の家族のためなら、たとえこの身が呪われてキリストから離されてもいといません」と神に泣き叫ぶ、新約のコーヘンが、今、必要とされています。

2:15 シオンでラッパを吹きならせ。断食を聖別し、聖会を召集し、
2:16
民を集め、会衆を聖別し、老人たちを集め、幼な子、乳のみ子を集め、花婿をその家から呼びだし、花嫁をそのへやから呼びだせ。
2:17 主に仕える祭司たちは、廊と祭壇との間で泣いて言え、「主よ、あなたの民をゆるし、あなたの嗣業をもろもろの国民のうちに、そしりと笑い草にさせないでください。どうしてもろもろの国民に、『彼らの神はどこにいるのか』と/言わせてよいでしょうか」。
2:18
その時主は自分の地のために、ねたみを起し、その民をあわれまれた。


共同体のメンバーには悔い改めを叫び、神にはあわれみを求める、ヨエル書2章の「泣く祭司」のように、私たちもなろうではありませんか。

石井田 直二(シオンとの架け橋)