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主なる神が言われた『死ぬ』と言うアイデアについて
笠木 重勝
創世記2章7節に「主なる神は土のちりで人(ハアダム)を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者(ネフェシュ ハヤー)となった」と、又、2章16,17節に「主なる神はその人に命じて言われた。……善悪を知る木からは取って食べてはならない。それをとって食べると、きっと死ぬであろう」と記されています。
神は命であり、生けるものであって、『死ぬ』こととは全く無関係であると私は思っていました。しかし、その神から取って食べると必ず『死ぬ』という言葉が人に向かって発せられました。
神のどこに、いつ『死ぬ』というアイデアが生まれたのでしょうか?主なる神が言われる『死ぬ』というアイデアは私たちが普段思っている肉体の滅びを言っておられるのでないことは分かります。それは、エバとアダムが善悪の木から《実》を取って食べた後でも、神が分かり、話が出来たからであります。しかし、食べて目が開けると裸であることを恥ずかしいと思い、主なる神の歩む音を聞いて、主なる神の顔を避け、木の間に身を隠したのであります。アダム達は主なる神の顔の前にいたのですが、生けるものとなった人は善悪の木から自分たちの実を造りその実を取って食べたのであります。この時、アダム達は神から独立したように思ったのではないでしょうか。その事がお互いに裸であることを恥ずかしい事と思わせ、主なる神から隠れられると思ったのではないでしょうか。しかし、この思いに基づく行為は主なる神の平安・安息(シャローム)を破ったのであります。
人は五感、五感以外のものを第六感とも言いますが、その六感で主なる神からのサインを受け、魂の働きを為し、思いによって言葉を発し、行動します。
人は主なる神と会話をしている時は心に平安があり、ほのぼのとするものを感じています。この平安は私の安らぎである前に、私の存在的根拠である主なる神の安息に基づいているから平安なのであります。
「神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された」(創世記2:2,3)と記され、またイエスは「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5:19)と言われています。イエスが心から安らぎ、平安であったのは子であるからであり、また神である父が、イエスにおいて安息された事の証でもあります。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(同5:17)と言われたとおりです。
子がしている業は主なる神である父の働きです。すべての栄光を神(父)に帰すること。これが神の顔の前に生きることです。この生き方はイエス・キリストによって実現しました。
神がしておられる働きを、自分がしたと思い己の栄光にするとき、主なる神にも安息はありません。神はこれらの事を通して単に『死』というだけではない『死ぬ』という事の実態を見られたのではないでしょうか?
最後に一言、経綸的には約束の民であるイスラエルが、イエスがキリストであることを受け入れ、その口をして父と子の名によって証をし、『死ぬ』事から解放されている事を一日も早く知ることが私の心からの願いです。
真っ青な空に浮かぶ白い雲の下、黄色の向日葵の迷路で顔一杯に汗をかきながら、わいわいと遊んでいる子供たちを見て和んでいる私、さぞかし、主なる神は、その顔に微笑が溢れていることを観、安らいでおられる事でしょう。
(アピオ大阪にて)
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